エピローグ
遠野の屋敷は相変わらずの様相だった。
翡翠のモーニングコールを寝惚け眼で受け取り、五分ほど二度寝をしでかしてから翡翠に叩き起こされ、着替えを済ませて居間に向かうと、すでに支度を終えている秋葉と、お茶に付き合っているシオンが迎えた。
「お早うございます、兄さん」
アクセントを「お早う」に置いているあたり、明らかな皮肉だった。それに憎たらしい表情で答えてやり、シオンには素直な挨拶を向けた。
「おはよう。早いね、シオン」
「家人より寝起きの遅い居候など聞いたことがありませんからね。礼は失しないように努めています」
そんなこと気にしなくていいのに、と思う志貴だが、シオンは生真面目だからきちんと守るだろう。
食卓につくと、琥珀の料理が彼を出迎えた。オニオンスープにバターロール、それにロールキャベツが並んでいる。簡素な朝食は志貴にとってありがたい。朝はあまり食べない性質だから、琥珀もそれを分かってくれているのだ。
やがて琥珀が台所、というよりは厨房から出てきて、笑顔を向けた。
「あら、おはようございます志貴さん。スープ、冷めてしまっていないですか?」
少し飲んで確認してみても、程よい熱さに冷めている。恐らくは彼女が起きてくる時間を見越してくれていたのだろう。
「いや、いい感じだよ。……おっと、のんびりしてる暇はないな」
時刻はもう八時一〇分を指そうとしている。手早く平らげてから、秋葉に先に出られてしまって手持ち無沙汰のシオンに挨拶をして忙しく遠野邸を後にしたのだった。
走る。
走る。
走る。
もう少しで学校、というところで思いがけない障害と遭遇した。
朝だろうが昼だろうがあらゆるところに出没しては志貴に溜息を吐かせ、シエルを殺気立たせている白い姫だ。待ってました、と言わんばかりの満面の笑みを志貴に向けて、彼女はご機嫌だ。
「しーき。おはよう」
「オハヨウゴザイマス。ソレデハゴキゲンヨウ」
機械的に手を上げて、行こうとした瞬間に襟首を掴まれた。その眼から察するにかなり機嫌を損ねた様子。
「志貴、冷たい」
「あなたの眼のほうが冷たい……ッッ」
「ちぇー、何だよ待ってたのにー」
あっかんべえをしてぷいと背を向けるお姫様。不覚にもかわいいと思った志貴の負けだ。
「悪かった悪かった。で、何だよ、どこに行きたいんだ」
「ううん、少し話したいだけ」
珍しいことを言ってアルクェイドはガードレールに腰掛けた。
「この間のアレ、大丈夫?一応シエルが手当したみたいだけど、どこも痛くない?何か違和感ない?ベルトが回ると変身しちゃうとか、裏切り者の名を受けて全てを捨てて戦ったりしてない?」
「マテ。かなり限定された心配だが、大丈夫だ。カプセルがピカリと光ってウルトラな男に巨大化することもないから安心しろ」
うん、と笑顔を返す。
しばし、無言。
志貴はアルクェイドの隣に腰掛けた。
「なぁ、アルクェイドはあいつのことどう思った」
この問いを予想していたのか、複雑な視線のまま彼女は答えた。表情は、力ない。
「正直言ってふざけるな、って感じだけど、あいつのことも少しは分かるかな。元々死徒って真祖が生み出したものだし。そもそも真祖自体欠陥品だからね。憎む気持ちも悪いとは言わない」
けれど享受する気にはなれない。やはり、あのとき志貴が言ったとおり死徒が意志を持ってやったことに文句を言われる筋合いはない。
「それにしても、あいつは本当に念動力者だったのかしら。最後の最後に覚醒してたけど、あれはまるで……」
「固有結界だった、ですか」
二人は後ろを振り返った。そこには青いスーツを着た知得留が腰に手を当てて立っている。志貴を咎めているようにも見えるし、アルクェイドを責めているようにも見える。
「先生」
「遠野くん、時間」
腕時計を見るともうHRが始まっている時間だ。
「知得留先生だって遅刻じゃんか」
「私はいいんです。暗示で間に合った、ということにしておきますから」
「卑怯くせぇ!」
知得留はカラカラと笑って、アルクェイドに向いた。
「往間四郎には教会も眼をつけていました」
いつしかの答えを、彼女は言った。
「彼が念動力者の片鱗を見せ始めた頃から監視は続けていました。それで今回の殺人は彼の仕業ではないか、とね。だから私も動いた」
「じゃあ、あいつのほうは?いくらなんでも私たち、殊に志貴のことについて知りすぎていた。あれはどう説明付けるのかしら」
「狼の仕業です」
「はぁ?」
「だから、狼の仕業なんですよ」
志貴には何のことやらさっぱり分からなかったが、アルクェイドには思い当たる節があるらしかった。
そう言えばやたら周辺を嗅ぎまわっていた妙な神父がいた。あれの仕業だとすると確かに頷けるが、納得はできない。
「そいつとの関わりは?そして、そうすることによって得られるメリットは?」
「……遠野くんに関心を向けて争わせ、遠野くんの力を確かめること」
「!」
「教会は遠野くんの力を利用しようとしています」
「シエル」
アルクェイドの瞳が光る。
「もちろん、私もそんなことはさせません。情報屋である狼はその命を受けて嗅ぎまわっているに過ぎません」
志貴は他人事のように聞いていた。のんびりした口調で、シエルに言う。
「あいつ、教会にいるんだろ?」
あいつ、とはシローのことである。
あのあと、シエルはシローの遺体を引き取った。教会に死亡の確認を取らなければならないし、何より彼をもう一度蘇生できないかと思ったからだ。教会に所属させれば、大いなる切り札になりえないかと思ったのである。
しかしそれは不可能だった。志貴の直死の魔眼によって切り裂かれた体は、もう蘇生することはない。せいぜい封印、と言って棺桶にほったらかし、というのが関の山だろう。
志貴の問いに、シエルは頷いただけだった。
「あいつ、念動力者じゃなくて魔術師の才能があったんじゃないの。固有結界らしきモノまで発動させて」
面白くなさそうにアルクェイドは言う。
固有結界。自身の裡にある心象世界を現実世界に侵食させる能力。だから、彼のバラバラという世界を侵食させた残りカスがあの切り裂く現象の正体だったのではないか。
尤も、志貴にはそんなことはどうでもいい。シローの、彼の生き方についてもどうと言う気にもなれない。だが彼の問いだけは。アルクェイドを殺せるかという問いだけは、心に引っかかっていた。
魔王と化したアルクェイド。恐らく足元にも及ぶまい。自分と言う存在さえも認識できず、欲求のままに血を求めるのは、ある意味では生物として全く正しい。彼女たちを生物とするのは、彼女たちに失礼であろうが、果たして人間とどう違うと言うのか。
アルクェイドを殺す。
もう、あのときのような思いはまっぴらだ。志貴の中にあった殺人衝動とかいうものが彼女を解体したとき、どんなに嫌悪に陥ったか。
望む殺しなどあるはずもないが、もしアルクェイドが暴走した際には、シローに宣言したとおり彼女を殺す。シオンのときのように正気を取り戻させる努力を怠らず、それでもなお話もできない状態ならば、確実に点を穿つ。頭がパンクしても構うものか。真祖と言う世界の触覚を殺し、世界を殺す。
ツギハギだらけのこの世界に終焉があるとするならば、それは彼の絶望によるものに違いなかった。
「大体、名前からしてふざけてます。シロー・ボーマン。『ン』と『ー』を考えなければ逆さにすると『マボロシ』ですよ?」
彼は、彼のバラバラの世界の中で、何を思ったのか。
彼は言った。シローと志貴が同じ超能力者でありながら、何故こうも違っているのかと。
違っている、とは、どうして志貴は死に一番近いのに、こうものんびりとした物腰で、真祖とも対等に接していられるのか、ということ。
決まっている。それは。
「“バラバラの世界”と“綻びだらけの世界”、その違いだけだ」
この力に折り合いを付けて生きろと、昔誰かが言ってくれた。
この世界は壊れやすいけど、でも。
志貴は二人を見た。何やらまた口喧嘩をし始めたようである。
眼を閉じて、祭りの光景を思い浮かべる。楽しげな宴が開かれていて、そこには彼を取り巻く全ての人たちがいた。ただの、楽しい空想だ。
翡翠と琥珀は庭で料理の用意をしていて、シオンがそれを手伝おうというので秋葉も渋々慣れない手つきで皿を並べたりしている。どこからか入り込んだアルクェイドとシエルが秋葉を交えて口喧嘩し始め、有彦がいたずら小僧のような笑顔をこちらに向ける。
能天気な姫がこちらに気付いて抱きついてくるので、また一悶着。
やっと開催された宴は、やっぱり騒々しいものだ。
夜空には月。満ち足りた、綺麗な夜だった。その月を見上げて思う。
――――ああ。大丈夫。ツギハギだらけでも、この世界はまだまだ大丈夫。あの騒々しい連中が、あの騒々しい連中である限り、何だ、捨てたものじゃない。ツギハギだらけで壊れやすいけど、でも。
ただ壊れやすいだけだ。それだけに過ぎない。
そうは思わないか、シロー。
だって、こんな騒々しさ、バラバラの世界じゃ味わえないだろう?