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遠野秋葉は不機嫌だった。
それもそのはず、深夜二時過ぎに自らの邸宅に「決闘」の申し込みなどというふざけた手紙を送られては、彼女の性格からしても上機嫌であるはずも無かった。無論、そういった野蛮なことは好かないが売られた喧嘩は買う人だ。だがそれが兄の志貴に対するものであるということが、彼女の癇に障る大きな原因なのだ。
深夜に「死体」から突然の訪問を受けて、遠野家の人々は叩き起こされた。居候しているシオンも、侍女である琥珀、翡翠はもちろん遠野家ロビーに集まらざるを得ない状況になったのである。
「ふざけてます。兄さん、お受けにならないで下さいね」
と、睨みを利かされても志貴は動じない。受けなければならない理由がある。
差出人は超能力者、とある。志貴に超能力者の知り合いは一人だけだ。あのときの念動力者。尤も、知り合いと言うほどのものでもないが。
「……学校へ来られたし、か。アルクェイドと知得留先生を人質にしたって?本当なのか、これ」
「冗談だとしても笑えないし、事実ならいっそう笑えません」
常軌を逸しているあの二人がむざむざ捕らえられるなどと誰が信じるだろう。それに、人質にするというメリットが見出せない。そのような面倒なことをせずとも殺してしまえばよいだけの話であるのに、何故わざわざ手間のかかる人質などを取ったのか。
志貴には理由が分からないでいたが、四郎の考えを知っていれば頷けるような話でもある。殺してしまって激情のままに戦闘に陥るのもよいが、彼女たちを助けるため、ならば大いにその力を発揮できるだろう。志貴の「直死の魔眼」という特異な能力はその真価を発揮すれば真祖をも殺した。四郎は興味を注がれたのだ。
それほどの魔眼を有する者が何故真祖と仲良く歩いている?吸血鬼は人間にとって忌むべきものであるはずだ。死徒は真祖から生まれたモノ。現在の吸血鬼が死徒やその配下のリビングデッド、グールである以上、許されざるモノであるはず。その大元が真祖なのだ。
決して許してはいけないのに。何故彼はアルクェイド・ブリュンスタッドと共に俺を斃しに来たのだ。
それは四郎の中で常に渦巻いている疑問だった。尤も、彼の真祖を憎む気持ちが今でも心の根底にある以上、志貴の心の中を理解することは永遠にない。
志貴は自室に戻って学生服に着替えた。七夜の文字が刻まれたナイフを爪入りの制服のポケットに入れて秋葉たちのいるリビングへ顔を出した。
「……兄さん」
秋葉がいかにも咎めるような視線を向けたので殊更志貴は柔らかい笑顔を向けてやった。秋葉の眼が丸くなったのが琥珀には可笑しくてたまらない。
「行って来るよ。翡翠、悪いけど明日は昼まで起こさないでいいから」
「兄さん!」
「畏まりました。くれぐれもお気をつけて」
翡翠の髪が揺れて深々とお辞儀をした。その眼には、主人の帰りを守る、忠実な従者の誇りが揺らめいている。
本当に、志貴は有り難かった。自分の我が侭を聞いてくれるこの少女には頭が下がる一方だ。
「翡翠……!!」
今度は翡翠に睨みを利かせて、秋葉は一歩進み出た。
「秋葉さま、志貴さんはご友人を救いに行かれるのですよ。このままでは志貴さんが悪者になってしまいます」
珍しく、琥珀が口を挟んだ。意外、といった表情で秋葉と志貴は見ていた。
琥珀は続ける。
「志貴さんは心が広いですから、一度知り合ってしまったら最後まで面倒を見たくなってしまうのですよ。アルクェイドさんと知得留さんを助けないことは、志貴さんを否定することなんです」
「……随分と分かったような口を利くのね」
「ええ。秋葉さまはそうは思わないので?」
秋葉は内心、卑怯だ!と叫びたかった。そう言われては「思わない」とは言えないではないか。
実際、秋葉自身も志貴のそういうところに惹かれたのではなかったか。幼い頃に一緒に遊んでくれた一つ年上の少年は、囚われのお姫様をいつもいつも救いに来てくれた、ヒーローだった。
それは再会したときにも失われていなかったのだ。幼い日の記憶そのままに少年は柔和な笑顔を向けて一言、ただいまを言った。
秋葉は今度こそ観念して、自室に戻って着替えを済ませた。淡い水色のYシャツに赤いロングスカート。
「私も同行します。否とは言わせません。琥珀、留守を頼んだわよ」
はい、と軽くお辞儀をして琥珀は微笑をたたえた。
「では私も行きます」
いつの間に着替えていたのかシオンはいつものミニスカートを身に着けて銃の撃鉄を起こしていた。
「前回の話から察するに、相手の念動力者は糸を使うという。最悪、戦う場合には私のエーテライトが相性が良いでしょう」
「シオン。できれば手は出さないでくれ。どうやら相手は俺とサシでの勝負をご所望のようだし」
「分かっています。秋葉もよいですね?」
不機嫌そうに頷いて、秋葉はとっとと外に出てしまった。
それに続いて苦笑しながら志貴とシオンも出て行く。
その後姿を、双子の侍女は湿った空気の下で見守っていた。
志貴の学校は屋敷から歩いて二〇分はかかる。その道程が焦燥こそなかったが、確かに煩わしいものであったのだ。
三人、連れ立って歩く
はっきり言って異様な取り合わせだ。秋葉は黒く艶やかな長髪をカチューシャで飾っただけだが、そもそも飾ることを必要としないほどの美貌の持ち主で、気品も胆力も持ち合わせていた。シオンは異国の人。これも白皙の肌と蒼みがかったような頭髪を三つ編みして動きやすいように束ねてはいるが、誰が見てもまず美しいと言うだろうし、冷ややかな瞳の先に何が映っているのか興味を注がれる。
一方志貴は凡庸と言ってよかった。見る人が見ればハンサムと言われないこともないが、その造形は特筆すべきことは何もない。ただ、眼鏡の奥から一種の冷気を感じる。それと同時に彼の雰囲気は温かで、柔らかい。クッションのような、毛布のような彼の人柄は十分特筆すべきものであろう。
その三人はそれぞれの表情で志貴の学校に向かっていた。途中、一言も言葉を発せず、晴れやかさとは何万光年の隔たりを見せたような表情で校門に立った。ここで、数十分ぶりに志貴が言葉を発した。
「二人とも、いいか。相手は超能力者だ。はっきり言って分なんか向こうに卑怯なくらいある。でも、手は出すな。自分に振りかかる火の粉のみ排除するんだ」
何を今更、という顔で二人は頷いた。
校庭に出ると、異様な空間が彼らを迎えた。ど真ん中に四郎が立っており、その傍らにアルクェイドとシエルの「囚われの姫君たち」が控えていたのだ。それを見るや、秋葉の怒声が彼女たちの鼓膜を襲った。
「あなたたち!いつもは威勢のいいことを言っておいて、そのざまですか!」
「挨拶ね、妹。悪いけど私は結構本気だったのよ?一番可能性のある志貴に始末を任せただけのこと。私とこの女じゃ殺されて終わりだからね」
悪びれず、囚われの姫1が言った。
「矛盾ですね。遠野くんこそ殺されてしまえば終わりなのですよ。不死のあなたがこういうときこそ役に立たないでどうするんですか」
と、眼を伏せる囚われの姫2。
睨み合う二人を見て不機嫌に秋葉は大きく息を吐いて閉口した。付き合っていられない、とでも呟いたことだろう。
「お二人とも、そう喧嘩はよしてくれ。観客がうるさくては開演できないだろう」
その言い回しが、シオンの癇に障った。いつかの、鬼が好んで使っていたものではないか。それだけで往間四郎を嫌いになることに決めた。
アルクェイドとシエルは態度こそ普段通りだったが戒めは働いている。往間四郎による念の糸が彼女たちの周辺を覆っていて、動くことはできない。触れれば簡単に服を裂き、肉を裂くそれは念動力を確かに逸していた。
無論、このままの状況で戦うなどとは常人には不可能だ。どのような強靭な鋼の精神を有していても、鋭い心象風景を思い描いたまま心に留めておき、戦闘状態に突入するなどとは不可能の領域である。それは鬼神のように研ぎ澄まされた殺意と憎悪と憤怒の感情を持ち合わせるに等しい。
それを、彼はやろうというのだ。だからこその人質なのであり、同じ超能力者である志貴に発するプレッシャーなのであった。
「往間四郎とか言ったな。お前……本気か?」
ナイフの刃を起こして、そう問うた。不吉な笑みをこぼして、彼は答える。
「間違っている。まず、本気なのかということを問うこと自体がな。真祖と代行者を人質に取るなどと大それたことをする人間が何故本気でないんだ?そして……」
これが、最大の間違いだと言わんばかりだ。
「往間四郎は死んだ。俺は……そうだな、シロー・ボーマン。幻想傀儡師」
言うのと、糸が志貴を襲うのは同時だった。殆ど瞬撃であったそれは、しかし志貴の危機回避能力によって血を噴き出させるに至らなかった。
二メートルほど後ろに退がって、志貴は既に眼鏡を外している。起こる頭痛など、最早意識の知るところではない。月明かりでシローが照らされ、シローに複雑な線が浮かび上がる。そう。また、点が無数に――――。
「はっは!七夜!!足りないぞ、もっと俺を殺そうと思え!!」
奴の叫び声で理性が吹き飛ぶ。七夜。七夜と言ったか。
「俺は……そんなモンじゃねぇッッ!!
右足を強く蹴る。ナイフを逆手に、シローを捉える。
だが、もうそこにシローの姿はない。ナイフが空を切り、志貴は胴を開けてしまった。そこに、とてつもない衝撃が襲ったのである。
無防備にも飛び込んできた志貴のどてっ腹に蹴りを見舞わせたシローは深追いをしなかった。念じれば細切れにできたろうに。アルクェイドは強く舌打ちした。観戦などという立場が情けない。
地面に尻餅をついて素早く起き上がると、志貴の頭はとうに冷えていた。いけない。我を失って突進とは、愚にもつかないではないか。
「志貴よ。ケンカ拳法だがね、俺にだって武術の心得はある。少しは本気になってもらわなくては困る」
その通りだ。志貴は素直にそう思った。我を失って突進とは、少なくとも集中していない証拠だ。
秋葉やシオンも見ているというのに、何をしているのか。これでは奴を殺せない。シローを殺すことができない。
志貴は思い切り頬を叩いた。そして、心の奥底に問いかける。
俺は何故ここにいるのか。アルクェイドを、シエルを助ける?あいつのやっていることが許せない?そんなものではないだろう。奴を殺すためにここにいるのだ。殺すことに理由も説明も不要。殺さなければ殺されるだけなら、殺すしかない。ただそれだけのこと。それ以外に以上に、何の言葉を付け足すことがあろうか。これ以上の「弁解」は最早蛇足。殺し合いは潔くなくてはならない。
シローは志貴に糸を遣した。一秒もかからないそれは、しかし回避された。身をよじらせるだけで切り裂くという現象を避ける。志貴の心はもう、シローにしか向いていない。
「そうだ。下らないことは考えないで殺すことだけを考えろ。お前をもっと見せてみろ」
糸が志貴のいた空間を蜘蛛の巣状に切り裂いた。それを巧みな足捌きで避けると、志貴は駆け出した。シローの周りを半円を描くようにして走り、シローの後ろに至ったところで中心へ方向を転換。シローまでの距離、およそ八メートル。志貴の得物がナイフである限り、攻撃対象へは極めて近づかなくてはならない。もう、四メートルほど、というところで志貴は急ブレーキをかける。彼の目の前を切り裂く、念の糸。
手が届くには至らなかったが、志貴の狙いは距離を詰めることにある。そうして動いて動いて、最後にはシローの首を獲ればよいのだ。それには彼にそうとは悟られずに事を運ぶことが要求される。何しろシロー自身は動かなくてよいのだから気付かれるまでは殆ど定位置だろう。
さて、あとは四メートルほど。この距離をどう詰めるか。
「志貴。俺にあまり念を使わせるなよ」
異なことを言う。これは、暗に念ずる暇を与えるな、との忠告だったが志貴は気付かなかった。
「何言ってんだ、使いたくなければ使わなければいい」
「そうもいかんがね、俺にこれ以上使わせると、どんどんコツを掴んでしまう」
「何を言っている……!」
構わず、飛び出す。瞬間、空間を切り裂かれたようだが、志貴の体は横へ流れていた。
大丈夫だ。見切っている。シローは念の糸をこちらに遣すとき、軽く腕を振るっているし、睨んでもいる。恐らくそうしなければ駆動しないのだろう。
また、半円を描く。今度はシローのほうから念の糸を忙しなく振るってきた。直角に動きながらそれらをやり過ごす。二〇秒ほど糸と格闘して、距離は少し離れてしまった。
「おい、志貴よ」
おしゃべりな奴だ、と志貴は思う。
「本当にコツを掴んでしまった。お前、死ぬぞ」
「おかしな奴だな、殺し合いをしてるんじゃなかったのか」
付き合いきれない、といった表情を志貴は見せた。ふむ、とシローは何ごとか考え込み、
「じゃあ、これを避けてみろ」
といって腕を振るった。
何のことはない。志貴は腕が振るわれてしまう直前に動いた。否、動こうとした。だが。
ぴすぴすぴすぴすぴす。
そんな擬音が似合うような糸が、志貴の右腕を貫いたのである。
瞬間的に脱力した右手は、握っていたナイフを落とそうとする。何とか左手でそれを受け止め、やっと痛覚が追い付いて志貴の額には脂汗が滲み出た。
馬鹿な。どういうことだ。奴の念が糸である以上、追いつくには時間差があるはず。念じてから対象を見る、という動作と方向性を与える行動である腕を振るうという動作をしなければ、糸である念を飛ばすことはできない。それはどうあっても覆されることのないものだ。
待て。彼は、何と言ったか。コツを掴んでしまう、とか何とかふざけたことを言っていなかったか。
もしかしたら。奴はアルクェイドとシエルを捕らえているという極限状態の中で覚醒したのではなかろうか。彼の切り裂くという能力の覚醒、つまり、今までの念が彼と繋がって飛び出していったのに対し、念じれば念じた場所が瞬時に切り裂かれると。
糸は繋がっていない。超局地的に念を送ることによってその場所だけが切り裂かれる。このとき、物を動かしたり、捻じ曲げたりということはできなくなるが、切り裂くという一点においては並の念動力者が念じて万象を起こすのと大差ない。切り裂くという「現象」を起こしているのだ。しかも、それをアルクェイドとシエルを念の糸で捕らえつつ行っている。見上げた、というよりは馬鹿げている。
これには、アルクェイドとシエルも驚愕した。よもやこれほどの相手だったとは。これでは自分も奴を殺せるか、本気で怪しいところだ。
「言ったろう。コツを掴んでしまったと」
彼の言葉ももう希薄だ。痛い。血が流れている。
先ほど腕を貫かれて、少しだけシローの心象世界が流れ込んできた。
どくん、と胸の鼓動が高鳴る。
痛い。頭痛がする。眼が何かを視ている。視てはいけない、視えてはいけない、視えるはずのないものが、脳裏に入り込んでくる。
赤色。バラバラになっている四肢。不気味に笑う赤い瞳の鬼。
そこにあるのはただただ、セキショクに染まった空間だけ。ひび割れた、地面や空さえも不安定な空間。割れた空の向こうは何もない。ただの真っ暗闇が侵食しようと意志を持っているよう。
志貴はシローの心象世界に入り込んでいた気がした。ガラスが割れたような空間。背景は恐らく外国の村。地面には確かに砂があり、木々もそびえている。だが、空にも地面にも決定的な亀裂が入っていて、その亀裂からは闇が見える。そこに、足を踏み入れる。
ずぷ、と厭な感覚が足を蝕む。まるで混沌。
その世界には人はいなかった。ただ、臓物が散らばっていたり、人間のものだったらしい手足が転がっていただけだ。そうして、そこに、見たことのあるモノを見出した。ソレはこちらを見て安堵したような表情を見せた。
そうして。ぼろりと崩れてしまったのである。
ああ、そうか。往間四郎は死んだとは、そういうことか。彼自身、一度吸血鬼に殺されているのだ。そして、そのとき切り散らされていた。
それからどういうことか、彼は蘇生し、念のカタチも変わってしまった。
ああ、そうだ。彼は殺されたときから。
彼の心象世界は、バラバラで止まってしまっていたのだ。
だから念のカタチも「繋ぐ」ことに適している糸に変化してしまった。切り裂く、とは彼が後から付けた解釈に過ぎない。彼の能力は「バラバラにする」という一点のみ。
だから傀儡師。バラバラの自身の体と世界を念という糸で繋ぎ合わせて動かしている、自身こそがマリオネット。
アルクェイドは、念動力者という人々は自らが経験したことならイメージ通りに仕上げることができると言った。なら、彼自身バラバラになってしまった経験からバラバラの心象世界を持ち合わせているのなら、先ほどのようなことは元々造作もないこと。
勝てない。勝てるわけがない。並の念動力者よろしく、切り裂くことができる相手と、どう戦えというのか。
「兄さん……!」
見るに耐えない。もうこれ以上は無理だ。全員でかかってでも奴を殺さなければ、志貴の命がない。秋葉が駆け出そうとするのを、シオンが制する。
「黙って見ていなさい。あなたの兄は、そうそうヤワなものじゃない」
何せ、吸血鬼化した自分を止めてくれたほどの男だ。あのような男相手に引けを取るはずがない。
一番、駆け出したいのはアルクェイドとシエルだったろう。自分たちの不甲斐なさが、今のこの状況を作ってしまっている。だが、感情に任せて突撃するわけにはいかない。今動けば四肢はバラバラだし、そうなっては、誰が志貴を抱き止めるのか。傷ついた志貴を、一体誰が癒すというのだ。
せいぜい、二人は唇を噛んで耐えた。
「(……負ける、のか)」
不意に、そう思ってしまった。気が弱っている、と思う以前に、志貴には違和感を拭い去れない。
何かがおかしい。
それが何なのかまだ分からないが、何かがおかしいのだ。それはこの状況とかシローのことではなく、恐らくは自分に関係すること――――。
「(勝つ方法はないのか……何か……)」
「志貴。死にたいか」
ざくん、と志貴の右太ももが裂けた。それほど深刻なものではない。走ったりする分には支障ない程度だが、激痛は走る。
「くそ……ッ」
志貴は走り出した。走り出して、シローに向かう。
ほどなく、左足が裂かれた。シローは何の動作も行っていない。ただ、見て念じただけだ。体が地面に吸い込まれて、土にまみれた。
「立て、七夜。俺は別に虐殺をしたいわけじゃない。殺し合いがしたいのだ。それには相手の役者が本気でないとな」
「黙ってろ……!」
すぐさま立ち上がってシローに肉薄する。
その迅さは十分常人離れしていたが、シローの眼はそれを正確に追った。
まず志貴の蹴りを右腕で受け、流れで放ってくる右回し蹴りを屈んで避ける。左へ持ち替えていたナイフの軌跡を見極め、左横に飛んだ。そして、無防備になった右半身に蹴りを見舞わせようとするのは志貴も甘んじて受けてはくれなかった。軽騎兵のごとき身動きで距離を置かれてしまった。
志貴にとってもシエルにとってもこれはかなり異常だ。志貴も幼い頃には一通り七夜の訓練を受けているし、その動きは今のところ稚拙な点は見受けられない。その志貴の一連の動きを見切り、ダメージゼロとは、敵ながら天晴れ、というところであろう。念動力者は体術に関しては素人同然、と認識を受けてしまうものなのに、彼にはそう楽観する材料が見当たらないのだ。
血が流れる。右腕から、両足から血が溢れて制服のズボンと靴を真っ赤に染めている。
志貴の表情に翳りが見えてきた。勝てないのか。やはり、ここで切り刻まれるのが終着だというのか。
…………?
待て。今、俺は何を思った?勝てないとは何だ。一体どこから出てきた言葉だ。
勝つ、勝つか。そうか、遠野志貴は、シロー・ボーマンに勝つ気か。
「……く、くくく、あはははは、はははははははははっはははははは!!!」
もう駄目だ。笑いが堪えきれない。勝つ、と来たものだ。情けないやら愉快やらで、志貴は体面などを気にせず笑った。
そうか、そういうことか。先ほどから脳裏をよぎっていた違和感とは、己の精神。考え方がすでに間違っていたのだ。何を、自分は勘違いしていたのか。
いきなりの笑声に驚いたのは志貴以外の全員だ。何が起きた。あれほどの馬鹿笑いを、何故する。
「志貴……?」
「遠野くん?」
「兄さん……?」
口々に怪訝な表情を浮かべて言う。
志貴としては笑うしかなかった。これは殺し合いだ。勝つとか負けるとかいった言葉はこの場には相応しくない。全く、甘い。
右腕を貫かれて、足を切り裂かれてどうかしたのか。まさか殺す、と決めておいて未だ勝つという言葉遣いをするとは、腑抜けている。まだ集中していない。本当に殺すつもりなら、こんなことにはならない。どこかで、殺したくはないとでも思ったか。
全くお笑いだった。それは、「勝てるわけがない」。何せ、殺すのだから。
「往間……じゃなかった、シロー・ボーマン。全く、悪かった。いや、本当に」
志貴は敵に対して素直に謝した。非礼もいいところではないか。殺し合いに礼があるのかは知らないが、もし志貴が逆の立場だったのなら、不愉快だったであろう。
「どうした、七夜。愉快か」
「そりゃ、愉快さ。まさか自分がこんなに腑抜けていたなんてな……しばらく血生臭いことに無縁だったから勘が鈍ったかな」
彼は今、素のままの自分をさらけ出している。
「いや……言い訳だな。シロー、改めてここから再開しよう」
深く息を吐いて殺気を満たす。そう。そうだ。アレはてきだ。斃すべき、いや、殺すべきてきだ。
てきは排除しなくてはならない。邪魔者は殺してしまえ。一対一の死闘?馬鹿な。これは元々一対一ではない。奴はてきだ。そう。“的”だ。
血が沸騰するように熱い。熱くて熱くて、まるで燃えているよう。
静かな殺気が灯ってゆく。その血潮は熱く、心は冷たい。右腕と両足を切り裂かれていることによって、志貴の感覚はより研ぎ澄まされている。
さぁ、殺し合おう。
先に動いたのはシローだった。いや、動いた、という表現は的確ではないかもしれない。彼は既に対象を見て念じるということだけで切り裂くことができるのだ。腕を振るうなどという無駄な動きはせずともよい。
志貴は動かない。そうだ。動かなくともよいのだ。こちらは逆に、視覚してから腕を振るうだけで簡単に念を「殺せる」。
「!」
ここで初めてシローは狼狽した。愉快そうな口許を歪ませていたのが、有りうべからざる事態に、解のない問題を前にしたような憮然とした表情を見せる。
シエルもまた、畏れ入った。彼は本当に死神なのではないだろうか。念をも断てるのではないか、との希望的観測を持ったことはある。だが、本当に断ってしまうというのはシエルの、埋葬機関の代行者の想像の及ぶところではなかった。
シローは憮然とした表情のまま、志貴に問う。
「七夜、お前何をした」
何のことはない。
「何を?……お前が期待しているような言葉では言えないな」
そんな大層なことではないのだ。
「俺の念は糸状だ。それが瞬間にその場に現れて切り裂くのだぞ。……それとも俺が念ずるのを予測したか」
「別に。切り裂くのを視てからでもいいんだよ。糸が繋がっていないと言っても念じるんだ。念自体はお前から発せられる。ということは、送られてきた念をただ断てばいい」
理解できない、と言った態のシローや秋葉、シオンだが、アルクェイドとシエルには理解できた。アルクェイドが答える。
「簡単なことよ。糸状になった時のあんたの念は本当にただの糸だった。あんたに繋がっている、ね。でもここに来てあんたの念はまた変化した。糸ではなくて、多くの念動力者が放つ念が、性質を変えただけのものになってる。今、物を動かしたり捻じ曲げたりはできない。でも切り裂くということに関しては、多くの念動力者と変わらない念の形でありながら全く異なる性質のものなのよ。もっと言えば、ただ、それだけのことでしかない」
つまりは。例え糸でなくなったとは言え彼から放たれることには変わりがないということ。
「だが……何故お前に俺の念が断てる?お前の眼は人間が理解できることにのみその効果を発揮できるはずだ。お前に俺のような経験がない以上、俺の念を断つことは不可能のはずではないのか」
何故彼が志貴の素性を色々知りえているのか甚だ疑問だが、たった一つのことを失念している。
「決まってるだろ」
俺も、一度死んだ経験があるから、さ。
死を経験した者同士、根本は違わない。性質は些か異なるようだが、死を経験した異常者はその大元の部分で繋がっている。ただ、異常者同士は相容れないだけ。
そのとき。シローはこの少年のことが少し分かった気がした。
元々の彼の温和な性格の他に、絶大な冷気を帯びている。絶対零度などよりはるかに冷たく、カマイタチよりも鋭い。
この二つがぶつかり合っているからこそ、結果的にあのような暖かみが生まれているのだ。他の人間ならば爆発していてもおかしくないが、しかしその爆発は、殺し合うときにのみこの少年は発する。
死を経験したことにより彼は心に冷気を帯びた。しかしそれは元々の春の陽光のような性格によって普段は覆われている。だが、「殺す」という言葉がスイッチとなって、彼の人格が切り換わったように影の部分が表へ出る。
完全な死への予感を覚えさせ、絶望的なまでの殺気と圧倒的な殺意。そのどちらがどう違うのかは当人しか知りえない。
「……クッ、そうだったか。だが、俺の心象世界は誰にも敗れはしまい。バラバラに殺されたという経験は、お前にもないだろう」
「そうだな……その答えは、これから見せてやる」
意味もなくもてあそんでいた短刀を、逆手に持ち直した。最も得意とする構えだ。
シローから念が発せられる。それは視覚情報として志貴の眼に確かに映り、ツギハギを切断する。切断と同時に横へ走り、シローから離れる。
バラバラの心象世界。シローはそれを遺憾なく志貴へ向けた。だが、「切り裂く現象」を悉く切断し、殺してゆく。
――――何故だ。何故、心象世界が殺されてゆく?奴には理解できるはずがないのに。
――――念動力者。心象世界ごと、悉く死ね。
志貴はまず校庭に走る線を追い、点を見出した。その土地の霊脈……力が最も集中する箇所である。これはアルクェイドとの闘いにおいて見せたものと同種である。あのときはその土地の霊脈を断つことでアルクェイドへの力の供給を断ったのだが、今回は単なるめくらましにしかならない。元々その程度にしか使用しないのだから、十分である。
赤黒い点を短刀で穿ち、校庭の地盤が砕け、志貴とシローの視界を覆った。シローがいかに念動力者とは言え視界に対象を納めねばその力を発揮できないから、これは決定的な切り札だ。志貴を見失ったシローは狼狽して辺りを見回した。
いない。志貴が消えた。
シローは体術にも長けていたが殊にゲリラ戦ともなると話は別である。気配を少しは探ることができるのは開いた空間だからだ。地盤の砂煙が未だに色濃く舞っている今では、遮蔽物が多すぎる。高々と上空に飛んでいった地盤さえあるのだ。大いにうろたえた。
しかし彼の危機回避能力というのも眼を見張るものがある。接近に気付いたシローは背後に念を飛ばした。だが、これはただの糸である。
切断。
志貴には単なる蜘蛛の糸程度にしか視えない。蜘蛛の子に向かって、蜘蛛の糸を発するのは愚かであった。しかし、それを思うのは恐らくは七夜黄理だけであったに違いない。
決定的。懐に入られたシローには最早念じる暇もない。
「……何故やめる、七夜?」
首に突きつけたまま、硬直している。
「それだ。七夜というのを訂正してもらおうか」
彼にとって、七夜という一族は「知らないもの」だ。覚えているとかいないとかではなく、覚えている必要のないもの。
例え遠野槙久の奸計によって記憶が改竄されてしまったとしても、今の遠野志貴としての記憶さえあれば、生きてゆける。七夜などには閉鎖された監獄のような沈殿した空気しかない。
彼が大切に思うものは、遠野志貴の中にしかないから。
だから志貴は思い出そうとする努力をしなかった。それは彼の母親からすれば寂しいことであるかもしれないが、今の彼を見れば、杞憂であろう。彼は、幸せか幸せでないかと問われれば、アルクェイドやシエル、秋葉、翡翠と琥珀、シオン、有彦といった彼を取り巻く騒々しい連中を少し思案した結果、分からないと答えるに違いないが、その回答こそが「幸せ」なのだ。
「俺は七夜じゃない。遠野志貴だ。訂正してもらおう」
シローは理解した。
「ふ、失礼した、遠野志貴。確かに、お前は七夜ではなかった」
七夜であれば、呼称など意に介するはずがないではないか。
「志貴よ。俺は、分からなかった。お前が何故真祖に加担するのか」
「…………」
「お前は死徒と化した友人を持っていたという。ならばこそ、問いたい。真祖を憎む気持ちは、全くないのか」
志貴はアルクェイドを見ることなく、冷然と答えた。
「ないな」
シオンの表情が少し複雑に変わった。吸血鬼を憎む、と言ったのは彼であるのに。
「死徒が退屈で始めたゲームの被害者は世の中に一杯いる。お前もその一人だろう。でもそれは、真祖とは関わりない。死徒が自らの意志で始めた以上、真祖に何の責任があるっていうんだ。確かに、元からいなければよかったなんて思わないでもないけど、それは曲解に過ぎない」
真祖の監督不行き届き、ということなら確かに彼らに罪は存在する。だが、果たして彼らが今日のことを予測しえていただろうか?
志貴にはそうは思えない。無論、アルクェイドという真祖が存在するから、というのもあるにはある。だが全ての責任を真祖に押し付けるのは卑屈に過ぎると思うのだ。
「ふふふ、そうか。だが、遠野志貴。いつかそこの姫が暴走してしまわないとも限らんぞ」
そうなれば、お前は覚悟があるか。血への誘惑を断ち切れなかった真祖、魔王を殺す覚悟がお前にはあるか。
志貴は答えた。シローに複雑に走った線を、秒をかからずになぞる。手ごたえの薄い切断を終え、付いてもいない血を払って、シローに背を向けた。
問答するだけ無駄なことだ。そのようなことは万に一つもないことだが、もし、もしそのようなことがあれば、俺は――。
「陳腐な言葉だけどな。彼女を殺して俺も死ぬ」
陽気でとっつき易く、この世の何かを背負った彼女が魔王と化してしまうような世界は要らない。そのようなほしは無くなってしまえばいい。この下らない世界を殺して、自分も死ぬ。
アルクェイドの表情は柔らかいものだった。そうだ。もし自分がそのようなことがあれば、きっと彼が何とかしてくれる。それは、シオンもよく分かっている。
「志貴」
ふと、背後から声がした。今、確かに解体したのに。
眼を見張った。他の誰もそうであった。確かに切断された線があるのに、まだ体が繋がっている。血が溢れるように流れ、眼球からも滲み出ている。
「何で」
「……死徒に殺されたとき、これで俺は少しの間を持たせたんだぞ。二回目ともなると何ともない」
念とやらで彼は自身を繋ぎとめているのか。全く、想像も理解もできないことである。これで本当に彼は傀儡師ということになったのだ。
不意に、アルクェイドとシエルを戒めていた糸が消えた。もう、そのような余力など残されていないのだ。解放された二人は、しかしシローに手を下すことはない。もう彼には死という終着があるだけだ。それに瀕死の人間に追い討ちをかけることを好しとしない。しかもそれが自分の手によって陥ったのではないのならば、他人の功を横取りするようなものではないか。
シローの瞳には段々と赤い色が侵食していく。バラバラの世界の中で、彼は何を思っているのか。
「志貴よ。俺はまだ答えを聞いていない。……ぐ、何故俺の念を断てたのか」
よくも喋れるものだ、と思う。吐血しながらようやく発した言葉には生気というものが欠けている。
「俺の心象世界には綻びなどないぞ。あのときのシーンは鮮明に俺の魂に刻まれた」
志貴は裂かれた自らの足に手を遣りながら答えた。
「……簡単なことだよ。お前は今にもそうやって死のうとしている。だからさ」
「……?」
「つまりさ。人の想念なんてものはその人が死んでしまえば無くなってしまう。心象世界だろうが、その人間自身が真祖のような不死でない限り、無くなってしまうのは道理だろう?綻びは、それさ。個体自体が脆いから、その想念が頑強だろうが遺志を引き継ぐ奴がいない限り何でも断てる。お前の心象世界とやらがお前だけのものである限り、綻びはなくなりはしないんだ」
それを聞いて、シローは確かに笑った。尤も、もう笑い声を出す気力もない。
「やはりな。……くぐ、お前は、とおのしきは、万物、のモノの、“死期”だった」
右足が崩れる。
「分からない。同じ超能力者でありながら何故こうも違うのか。……く、ぐぐ、しかし、お前の、心象世界、はどんな、ものか、見てみたかった、も、のだ。それはさぞかし」
綻びがないのだろうな。
そう言って、ソレは崩れた。ぼとぼとと地に落ちて、薄い笑いを浮かべた表情のまま絶命している。
志貴はその様子を見て、憐憫にも取れない複雑な感情がよぎったのを他人のように感じていた。
そして思うものである。
「俺に心象世界はないよ。あるとすれば、それは」
綻びだらけのこの世界だけだ。
幻想印象、了