V

 

 

 小さな佇まいだが清潔さと生気を失わないのが彼女のアパートである。こじんまりとした無駄のない部屋はまるで彼女を表しているようで、生活感と存在感を感じさせる。小柄な彼女ではあるが気付かない、ということではないように。

 シエルの瞳が蒼く輝いている。良いほうの意味ではない。暗く、陰惨たる代行者の瞳で暗闇に座っている。

 電気は点けていない。真っ暗闇の中でシエルの眼は虚空を見つめている。正しくは睨んでいると言ったほうがいい。世辞にも広いとは言えない部屋の中に、暗闇に紛れて狼が潜んでいるのである。もう、五分はそのままだ。

 沈黙は狼が破った。

「七位。随分と執着する」

 感情のない声は変わっていない。数年来の付き合いだが未だに彼を把握できていない。

埋葬機関の位で呼ばれたシエルは敵意とも取れない眼差しを彼に向けた。

「あなたこそ、こんな極東に何の用です?まさか真祖を滅ぼしに来たと言うんじゃないでしょう」

 彼、通称を「ウォルフガング」とする神父は長身であった。一九〇センチメートルを越えるその身は日本の居住には到底合わない。狭そうに身を縮ませて胡坐をかいた。

 シエルは小奇麗に正座している。番茶をすすって眼鏡越しに用向きを促した。

「往間四郎についての情報を持ってきてやった」

 明らかにシエルの眉間がぴくりと動いた。現在の連続猟奇殺人の犯人。その目星を、教会は早くからつけていた。

 元々往間四郎は優秀な念動力者として教会の監視を受けていた。純正の日本人ということもあって今回の殺人の犯人ではないかと教会は疑っていたのだ。もし犯人が魔術師ならば協会の管轄であるし、そうでなければどちらの出番もないわけだが、しかし相手が超能力者となると話は別である。

 教会は全ての異端を嫌っているわけではない。事実、過去の歴史において真祖の姫であるアルクェイド・ブリュンスタッドと共同戦線を張ったこともある。真祖を嫌悪しているのはむしろ教会の中の一組織である埋葬機関だけであり、ここだけは教会とは異なる空間であったのだ。

 超能力者は人間だ。死徒ではない。だがその秘めたる力は強大で、頼もしく、また脅威でもある。だからこそ人外と認識すべきなのであった。自分たちと同じくする人間でありながら人間以上の力を持ち得た、人の守護者。彼らは真の人外、悪魔や鬼の類を滅するために人類が生み出したモノであるが、多分に洩れず人格には大いなる欠陥がある。だから、人間自身に力の矛先を変えないとも限らない。故に、「人外専門」の埋葬機関が往間四郎を監視していたのである。無論、それは埋葬機関だけでなくエクソシストの人間にも触れ回られた。

「往間四郎……まあ、経歴云々は『そちらさん』のほうが詳しかろう。現在までの消息から話そうか」

 狼はそう言うと台所に立ち、慣れたような手つきで茶の用意をし始めた。シエルは自分の分は用意しているが彼の分までは用意していなかったのである。初めてこの家を訪れたくせに湯呑みの置き場所を知っている辺り、この部屋のことは全て把握しているのだろう。プライバシーの侵害、甚だしいが、しかしそんなものは埋葬機関にとって無かった。私の感情を許すのは、怒りと憎悪と「武士の情け」だけである。

 ウォルフガングは自分にも番茶を注いで一口飲み、息をついてから話しだした。

「現在の連続猟奇殺人とやらの犯人はずばり、彼だ。それは君も諒解しているだろう。加えて、フランスの一件も彼。そして、埋葬機関がちょっかいを出しているのも彼だな」

「……いつも思うのですが、あなたは埋葬機関の人間ではないくせに情報を知りすぎている。何故ですか」

「俺の通り名を知らぬわけではあるまい?」

 そう、彼の通称はウォルフガング。縦横無尽に駆け回る、情報という山の王。彼はエクソシスト、悪魔祓いに類する者であるが悪魔退治の法も習得している。そのどれもが埋葬機関の人間の見よう見まねであるが、しかし多分の努力と確かな身体能力に裏打ちされて相当なものである。

 無論、埋葬機関の人間から「聞きだした」というのもある。初めから所属していれば問題ないが、しかし彼自身、自分には埋葬機関の人間たる資格はないと思っている。

 単純に身体能力という点からも自分はシエルにも劣るだろう。元々頑強にはできていない。それに。彼らほど魔を憎みきることもできはしない。人間の体を極限にまで高め、それ以上の能力を持つ悪魔の類と渡り合うというのは人外と呼べるのではないだろうか。それならばむしろ、魔に親近感こそ持っても憎みきることはできはしないのだ。それが彼の考えであった。尤も、そんなものは埋葬機関にとっては失笑の元であろうが。

 彼がウォルフガングと通り名、洗礼を受けるに至ったのには一つは諜報活動が得意だったからである。土地によって異なる伝承や言語を知り尽くし、身を隠すことを洗練させ、あらゆる魔の文献や情報を記憶に刻み込んでいる。その土地に三日もいれば彼は完全に溶け込むことができるだろう。それは、その土地に長らくいた者でも、または埋葬機関の人間でも看破することができないほどに。

 ウォルフガングはそういう男だ。彼は埋葬機関にこそ必要な男であり、悪魔祓いに甘んじていることがシエルには理解できない。

「まあいい。とにかく、往間四郎は日本にいる。お前たちも既に遭っているだろう」

 お前、ではなくお前たちと言ったのは、彼がその現場を見ていたということ。食えない男だ、とシエルは思った。

「……ああ、別に黙って見ていたわけじゃない。彼も私の存在に気付いていたんでね。仕方がなかった。変わりないように聞こえるだろうが」

 茶をすすりながらウォルフガングは弁解した。

「……別にそんなことはどうでもいいです。あなたのことですから、もっと確実な情報を掴んでいるのでしょう?」

「まぁな。往間四郎の狙いは、どうやら真祖だということが判った。それも、真祖ならば見境がないというものだ。あのブリュンスタッドの姫をどうこう言うんじゃない、真祖という一つの種類を、地上から抹消したいようだ」

「真祖を抹消する?なら、私たちとは気が合いそうですね。人を殺さなければ、の話ですが」

「ぞっとしない話だな」

 ウォルフガングは鼻で笑って眼を伏せた。別段、有り得ない話ではないと彼は思っている。真祖をも抹消したがっている埋葬機関の人間にとってはそれは気が合いそうなものである。

 眼を伏せたままウォルフガングは続けた。

「……で、彼は二年ほど南米に行っていたようだが、どうやらそこで何かあったらしいな。立ち居振る舞い、外見までもがまるで別人だ。南米を管轄している信徒に話を聞いてみたが、詳しいことは判らずじまいだ。が……」

 眼を開けてシエルに少しばかり気を引き締めた様子を見せた。

「骨格が別物だ。はっきり判る。南米に行く前の往間をこの眼で見ているが、この間のあれは別人だ。顔は同じだがな、あんなに肉付きがよくはなかったし身長も五センチは伸びているな」

 往間四郎の南米に行く前の年齢は既に二五歳であったから、五センチの身長の伸びは考えられないと思ってよいだろう。肉付きのよさは何らかの筋力増強を施したことで説明はつくが、身長だけはどうすることもできない。

 シエルは往間四郎の顔を、この間の戦闘のときにようやく知った程度である。姿かたちも、あの時の彼以外は知らないからウォルフガングの話を信じるより他にない。

 だが、何かがあった。予測することも不可能なことだが、彼の身に何らかの大事が降りかかったのだ。

「それで、その信徒が言うには一つの村が滅ぼされたそうだ。俺も現場に行ってみた。既に片付けられていたが、死臭が酷いものでな。教会も隠蔽に手を尽くしたろうよ」

「その話は聞いています。吸血鬼のものであることは疑い得ないそうですが……埋葬機関にも、往間四郎の仕業という報告は来ていませんでした」

「そうだ。何しろ往間四郎の死亡が確認されたのでな。彼の遺体が村の真ん中、広場で確認されている。彼を監視していた信徒が確認した。衣服もそのままでこの村では考えられないものだったし、なにより黄色人種だ。往間四郎の死亡は断定された、が」

「頭部が無かったのでしょう?」

「その通りだ。恐らく何らかの秘法によって頭部以外の人体をかき集めてくっつけ、定着させたのだろう」

「秘法……というよりは呪詛の類でしょうね。強力な呪いによって魂を縛り付けている……言うまでも無く禁忌です」

 苦々しい表情で蒼い瞳の信徒は言った。彼、往間四郎が殺されたことには大した表情を見せなかったが、呪術の類は始末が悪い、と彼女は考えている。

 もしそれらのことが事実だとするならば、往間四郎はすでに死んでしまっているモノとして考えたほうがよさそうである。一度殺されてから蘇生するなどとは人間ができる神秘ではない。往間四郎は死に、呪いによって別の何かとして蘇生したのだ。

 もう、往間四郎は存在しない。

 それは四郎自身も諒解していることだ。

「往間四郎の現在の所在は?」

「……天王山というアパートだ。今は廃屋になって、近々取り壊される予定のようだが」

「取り壊しの前に決着をつけようというんですか。いい覚悟です。……」

 シエルは漆黒の法衣に身を包んで分厚い聖書を懐に隠しておいて黒鍵の元とする。黒鍵の柄は今回は少し多めに八〇ほど忍ばせておく。

 十字架を首から提げ、少し撫でた。神、というものの信仰はシエルには希薄というべきものだったが、今のところ罰を与えてくれるだろう唯一の存在である。せいぜい過去の十字を背負って、救世主の到来を願うことにしよう。

「行動が早いな」

「当たり前です。消すには今夜がいい」

 そう言って、代行者は自室から出て行った。

 今夜がいい、か。確かに月がまだ完全に満ちていない。だが、それは相手が吸血鬼だった場合だろう。もしかしたらシエルは験を担いでいるのかもしれない、と狼は部屋の窓から差し込む光を受けて思った。

 

 

 天王山というアパートは名前ほどに大した物件ではなかった。第一、すでに廃屋となってしまっているのだからそれも窺い知れよう。

 築二〇年の建物は改修されること六回に渡るが基本的構造の安普請は覆い隠せず、遂に二ヶ月前、二階のとある部屋の床が抜けてしまった。それによってわずかな住人たちも離れてしまい、潰れるに至ったのだ。

 そこに、死を纏った聖職者が立った。

 アパート、というよりは宿舎に近い天王山のロビーには埃が溜まっている。カツカツとブーツを鳴らす度に埃が舞い、それほどの年月も経っていないだろうに、と招かれざる客は思っていた。

 入り口を入って右手側にある階段を上がって気配を探る。確かにいる。死臭と腐臭ときな臭さがシエルの鼻腔を満たしてしまうと、素早くシエルは黒鍵を三対構えた。殺気立っている、とは言わないまでも何とも言えない鋭い空気が、ある部屋から流れてくる。シエルは一応、足音と気配を消して近づいた。もう、既に気付かれていることと思うが。

 黒鍵の切っ先で半開きになっている扉を押しやって開いた。奇襲を恐れて少しずつ少しずつ近づき、壁から中の様子を窺った。いる。彼が、念動力者が確かにいる。

 彼はソファでくつろいでいる形で煙草を吸っている。白煙が部屋の中を満たしていて、もう吸殻が一〇本以上も投げ捨てられている。まだ火の点いた煙草をシエルの足元によこした。これは、彼なりの宣戦布告のつもりであった。

「こんばんは、代行者」

 前と同じ愉快そうな微笑をたたえて彼は言った。

「往間四郎。大人しく私に従いなさい。教会の管轄の元で更生するのです」

「代行者。夜分に押しかけておいて非礼を詫びないのはどんな社会でも時代でも失礼に値するぞ」

「ぬけぬけと。あなたの家ですか、ここは」

「かつてはな。いつか往間四郎という男が住んでいた場所だ」

 首を捻って骨をコキコキと鳴らす。

「お前も俺の正体に気付いているんだろう?埋葬機関が五月蠅く監視していたのには少しばかり鬱陶しかったものだ」

「知っているのなら話は早い。往間四郎、観念なさい。この先逃げおおせることなどできはしません。埋葬機関が逃すはずもない」

「俺の体のことは?」

 シエルは黙って彼を見ている。沈黙を肯定と受け取った四郎は続ける。

「察しの通り俺は一度死んでいる身だ。だから念も歪なものになってしまった。今も継ぎ接ぎだらけの体でよくやっている」

 彼はTシャツの袖をまくって肩まで露出させた。肩の継ぎ接ぎが人工的な肌色の線で表れている。

「だが、活動の限界が近づいている」

「……!?」

 何を、言っているのか。

「前回も一年ほどだったがね、だから俺は早く決着をつけたいのさ」

「ならば、何故あのとき真祖を見逃したのです。あのままであるならば彼女を確実に殺せたはず。何故」

「……もっと面白いものに出遭ったからさ」

「……面白いもの?」

「直死の魔眼」

 瞬間、シエルの表情に驚きと殺気が漲ったのを彼は見逃さなかった。

「遠野志貴に遭ったからさ。同じ超能力を持っていながら彼は俺とは違う。彼には殺気も感じる。だが圧倒的に柔らかい何かがそれらを包んでいる」

 当たり前だ、と思うのと黒鍵を構えるのは同時だった。

 どうして遠野くんが、お前みたいな狂人、殺人鬼と同じでなくてはならない?

 この思いが、シエルの冷静さと勝機を失わせた。

「動くなよ代行者」

 彼が右手の薬指をわずかに動かすと、法衣の右脇腹が裂けた。微かに赤い血が流れ、シエルはしたたかに後頭部を打たれたような思いがした。しまった、何故気付かなかった。彼は初めからこの部屋に念の糸を張り巡らせていたのだ。

「あなたはもう不死ではない。動けばあなたは微塵切りだ。それで、終わり」

 ぎり、と奥歯を噛み締めて若い代行者は黒鍵を下ろして捨てた。

「そう。物分りがよくて助かる。あなたはとりあえず俺と『七夜』の殺し合いを見ていただこう」

「遠野くんには何の関わりもないはず!許しませんよ!」

「代行者。悪あがきはやめてくれ。彼は俺と真祖の戦いの際に居合わせた。口封じをするということで、納得していただこう」

 そのとき、彼の表情に不吉な何かがひらめいたのをシエルは見た。

 

 

 時刻は午前一時半を過ぎた。言うまでもなく真夜中である。

 真祖の姫、アルクェイド・ブリュンスタッドが居とするアパートはシエルのアパートより些か広い。フローリングの床はきれいに掃除してあり、埃一つもない。普段の彼女から見れば掃除している姿など想像できないが一応していることはしている。尤も、時折志貴が訪れる際に見かねて掃除をしてしまうのだからアルクェイドは楽なものだった。

 電気は点いていない。月明かりも無く、真っ暗な室内は熱気がこもっている。体温など調節する必要がないのだから暑いなどとは感じないのだ。

「――――」

 ほどなく、殺気。

 ぴくりともしない無防備な喉元に白銀が吸い込まれようとする。

 …………。

 どか、とアルクェイドは腹にしたたかな蹴りを見舞わせてやった。

「――――」

 一メートルほど飛ばされてクローゼットに叩きつけられ、漆黒の暗殺者はむくりと起き上がった。

「シエル……!?いきなり何だってのよ……!?」

 と、アルクェイドは気付いた。シエル自体に殺気は感じられない。感じるのは、そう。シエルの後ろにいる不愉快な人間から。

 その不愉快な人間は部屋の電気を自ら点けて姿を現した。

「念動力者!?シエルを操っている?」

 あのとき、死体を操り人形にしたのと同じものか。本来ならば意志のない人間にしか作用しないものだが、今はシエルの意識は失っているので操ることが可能であるのか。尤も、そんなことはアルクェイドにとってはどうでもいい。

 それにしてもシエルの何と情けないことか。このような人間一人に後れを取るとは、埋葬機関の代行者の肩書きが泣く。

 アルクェイドは就寝していたのでYシャツに下着、という出で立ちだが他者を圧倒する威圧感は健在だった。突き刺すような眼差しと殺気を彼に向けるがやはりさらりと受け流されてしまっている。

「あんた、何者なのよ」

 赤く光る瞳はそのままに、訊いた。

「ただの死にやすい人間だ。本来の目的はあなたを殺すことだったが、変更した。遠野志貴を殺す」

「何ですって……!?」

 明らかに顔色を変えたアルクェイドは気付かなかった。シエルと同じ状況に陥ってしまっていることに。

 念の糸を一瞬にして部屋中にばら撒いてアルクェイドを取り囲んだ。だが、これで彼女を殺せるとは思っていない。どんなに策を凝らしてみても、結局のところ彼女に死を見舞わせることは不可能なのだ。

「くっ」

 アルクェイドは観念した。例えここで彼の首を取ろうとしても四肢を裂かれれば一時的には彼女に彼を殺すことは不可能になってしまう。

「どうも遠野志貴は罪作りだな。同じ手で二人、捕らえることに成功した」

「げ、じゃあそこのカレーと同類ってワケ?私」

 くっく、と笑って彼は手招きした。

「待ってよ、下を穿かせて」

 そう言っていつもの深紫のロングスカートを穿いて、彼の意に従ったのである。

 ……遠野志貴と往間四郎との死合いを観戦するという、茶番に。