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シオン・エルトナムが遠野邸に滞在して一週間が過ぎた頃、彼女は、アルクェイド・ブリュンスタッドはひょっこりと顔を出した。庭で秋葉とシオンがエーテライトの扱い方の練習をしているのを志貴がぼんやりした表情で見ていると、白い影が彼の背後に立った。
「やっほー、しーき」
プラチナブロンドが陽の光に映えて美しい。太陽を背にした彼女の姿は本当に眩しかったのだ。志貴は手で光から眼を庇いながら見上げた。
「アルクェイドか。また勝手に入ってきて……」
「な、泥棒猫!また勝手に人様の庭に入り込んで!」
秋葉のヒステリックな声が志貴の言葉を遮った。「秋葉が怒り出すぞ」と言うのを本人が実演してくれたのだからもう閉口するしかない。
アルクェイドはその声には別段気にした様子を見せなかったが、隣にいる蒼みがかった髪の少女を視界に収めて声を洩らした。
「あ、錬金術師」
「真祖。相変わらずですね」
「むー、最近めっきりお見舞いに来てくれなくなったと思ったら、こんな女と遊んでたのね」
頬を膨らませて非難するアルクェイドにはいつしか猫耳が生えていた。
シオンとアルクェイドもまた初対面ではない。タタリを滅ぼす際にシオンはアルクェイドに協力を求めたがこれを退けられ、しかし最終的にはタタリの正体であるズェピア・エルトナムを発現させることに協力している。
そこに敵対心はないが馴れ合いも無用。それはお互いに承知していることであった。
「待て待て、見舞いには散々行ったろう」
一応、反論はしてみる志貴だった。
「だーめ。足りない。大体、ラーメン作りに来てくれるだけでゆっくりしてってくれないんだもん」
が、これをあっさりと退ける白い姫。少し拗ねているのが可愛いと思ってしまうのが悔しい。
「ラーメン?」
「ラーメンですって?」
聞き捨てならない、と言わんばかりに秋葉とシオンは志貴に詰め寄る。
どうして、何故、兄さんが泥棒猫に手料理を?
聞いたことがある、ラーメン。確か香港にいたときにもその匂いがしていた。……おいしそうだった。
どちらの心情も読み取ることができるので志貴は狼狽している。一体、どうしろと言うのか。
「兄さん、遠野家の長男たる者が自ら料理と?しかも妹である私を差し置いて……どういうことですの」
「志貴のラーメンはおいしいんだから。妹は食べたことないの?」
余計なことを言いやがって、と志貴は思う。
「……ありませんわ」
「じゃあ私にだけ?やだ、志貴ったら一途なんだぁ」
「どういう意味だっ、それは!」
「そのまんまよ。やっぱり志貴は私のものだね」
ぴくりぴくりと眉間に皺が寄ってくる。アルクェイドの言葉に反応したのは秋葉だけではなかった。普段、冷静なシオンも少しむっとしたような表情を見せた。
「さっきから聞いていれば泥棒猫!」
「ま、待て待て秋葉。アルクェイド、何か用があって来たんじゃないか?」
「あ、そうだ。志貴に言っておくことがあった」
思い出して、アルクェイドの瞳が据わった。アルクェイドがこの眼をするときは殺し合いの話のときだ。そして最近では、念動力者についてしかない。
「この間やり合った念動力者だけどね、あいつ、何だか変よ」
「変って、何がさ」
「あいつの念はひどく歪なのよ。そうね、多分線状になっているんじゃないかと思う」
頭が混乱してくる。そもそも念というものは形ではない。概念であるために定形ではないのだ。それが線状になっていると彼女は言う。
念と言うものは人の内に存在するものである。それが確かな形となって外に放出され、目に見えるというのは考えにくい。通常、念動力者はこの念を外界に放出して万象を起こすものであるが、それでさえ形というものは存在しない。念と言うものが何らかに作用するから、特に形というものを持たなくてもよいのである。それが、先日の念動力者の念は形を持ってしまっているとアルクェイドは言った。それは、恐らくは念動力者としては特異な部類であり、また欠陥でもあるのではないか。
何しろ隙間が生じていることになる。念という糸を何千、何万と繰り出したところで本来の緻密さがあるはずもないし、それは大変な欠陥である。
「線状……糸って言ったほうが正しいわね。とにかく、とんでもない欠陥品よ、あいつは」
「……?でも待て、あいつは確かにお前をふっ飛ばしてたじゃないか?お前の言う通り糸状になってたとしたらそんなこと不可能だ」
「できるわ。それこそ本当に集中して何万、いえ何千万という念の糸を集約させれば、鉄柱くらいにはなる。それで私を叩きつければいいんだもの」
そうか、と志貴は納得した。あの時志貴たちを見逃してくれたわけではない。あれ以上の戦闘が困難だったのだ。ほんの糸でしかない念を柱にするには相当の精神力が必要であり、恐らくは並の人間ならば耐えられまい。それを可能にしてなおかつ「余裕」を見せている彼は、確かにアルクェイドが不安を覚えるのに相応しい相手だ。
だが、疑問が残る。念動力者はイメージすることで万象を起こすことができると言う。ならば、糸状になってしまった彼の念は、どのようなイメージによって作り出されたのか。
「……多分、同じでしょうね。結局のところ念は念なのだから変わらないとは思うわ。けれど……」
珍しくアルクェイドの表情に暗い影が差した。何か言いよどんで彼女は口を噤んだのだ。
「どうした?」
「いいえ……何も」
けれど、私はまだあいつを脅威に思っている。念動力者としては欠陥品のあいつを?冗談じゃない、恐れる要素など一つもないというのに。どうして、こう、不安な感覚が胸を支配するのか。どうかしている。たかだか不可思議な力を持ったただの人間ではないか。
アルクェイドの心には依然として不安な感覚が鎮座している。恐らく彼は自分の欠陥を知っているだろう。だが彼は何の恐れも持たず、自分が不利だということにも恐れず、多分の余裕を持って三人に笑いかけていた。どこか悪魔めいたような微笑はアルクェイドの好むところではなかったが、何か不吉な予感を抱かせるのであった。
アルクェイドが口を閉じてしまったので志貴としては質問することが山のようにあったが、しかしこの場ではそれは憚られた。黒い髪の少女が、鋭い視線でこちらを睨んでいるのにようやく気付いたからだ。
「兄さん、今のお話は一体どういうことですの?」
志貴は恐る恐る秋葉のほうを向いた。だめだ、うっすらと赤い。
「いいいいいや、秋葉落ち着け、別に疚しいことなんて何も……!!」
していない、とはまさか言えない志貴だった。夜中に屋敷を抜け出して外出し、あまつさえ連続猟奇殺人犯を追って死闘を繰り広げたことのどこが健全な少年のすることであろうか。
ましてやアルクェイドと、シエルと一緒だったなどと口が裂けても言えない。いや、アルクェイドと一緒だったというのは今露呈してしまったから仕方ないとして、シエルも一緒だったと言うのは隠しておかねばならない。そうでなくては赤い鬼が雷を従えてやってくることになる。
「兄さん、しっかりと説明してください!!」
「そうです志貴。念がどうとか……非常に興味深い。是非話していただけませんか」
それにシオンも乗ってくるのだからどうにも始末が悪い。
「簡単なことよ。今起きている連続猟奇殺人の犯人をとっちめに行ってるだけ」
アルクェイドが答えてしまったのがもっと始末が悪かった。分かってても避けられない地雷を踏んで、志貴は大いにうろたえた。
「連続猟奇殺人……?」
「し、知ってるのか、シオン」
「ええ。前に通行人からリードした記憶にありました。例を見ない、残虐なものだったとか」
眼を伏せて記憶を探る。そう、確かに猟奇殺人というものが情報として組み込まれていた。頭部を潰し、手足を捩じり、内臓をえぐり出されているとか。
それはある忌々しいモノを連想させる。吸血鬼。
シオンにとっても志貴にとっても忌むべき存在であり、埋葬機関が血眼になって追っている魔の側に位置するモノ。彼らのおかげでどれほどの血が流されては涸れ、吸収され、怨念を生み出したことか。シオンの体も彼らの吸血衝動とやらのおかげで変質してしまったし、また憎悪も生んでいる。それは志貴も同様だ。彼は人間のままだが心の奥深くをえぐられ、強い遺恨を残してしまっている。
二人とも決して顔には出さないが、深く吸血鬼と言うものを憎悪しているのだ。
しかし今回のこの事件は吸血鬼の仕業ではない。そもそも血を抜かれたという情報はニュースにもなっていないし、街行く人々の噂話にも上っていない。ならば、吸血鬼の仕業ではないのだろう、とシオンは思う。吸血鬼ならば血は吸わなければならないし、それを一ヶ月近くも断っていられるなどとは二十七祖くらいのものであろう。いや、二十七祖であっても壮健ではあるまい。
ならば今回の事件は吸血鬼とは関係ないということになるが、果たして何故志貴がそれに関わっているのか不思議ではあった。
「志貴。何故あなたがその連続猟奇殺人犯とやらを追っているのか。その辺りのことがどうも理解できないのですが」
シオンの疑問は志貴にも十分察しうることであったので難なく答えた。
「今回の事件は超能力者が関わっているんだ。……で、その超能力者とはアルクェイドは戦ったことがない。だから超能力に対する耐性なんか持ち合わせていないし、どう戦ったらいいのかも分からない。そこで俺が協力してやろう、と」
「何で兄さんなのですか。あのカレーとでもやればいいのではないですか?」
「うん、だからシエルとも共闘したわよ」
やっちまった、と志貴は思った。
「…………ふふふふふふふふふ」
不気味な笑い声を浮かべている鬼が一匹。
「あ、秋葉?」
「泥棒猫では飽き足らずカレーとまで夜の外出を……兄さん、分かっていますね?夜の外出は控えていただきます」
「しかしだな、秋葉」
とは言えない。そんな隙を与えない代わりにプレッシャーを与えてくる秋葉。
…………結局その日はアルクェイドの傷も癒えていなかったのでお開きになってしまった。