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風呂上りにリビングに顔を出すと、何やら殺気のようなものがリビングを満たしていた。琥珀と翡翠も困ったような表情で当主である秋葉を遠慮がちに見つめている。
何か、ヤバい。
そう直感した志貴は急遽踵を返して早々に自室に戻ることを決定した。が。
「兄さん」
苛立ちを含んだ声で呼び止められて、再びリビングを振り返る。
「な、何だ秋葉」
せいぜい平静を装う振りをしてタオルで濡れた髪をぐしぐしとかき回す。その仕草は、二人のメイドから見ても不自然であったろう。
「何だ、ではありません。庭から腐ったカレーの臭いがします。どこぞからお呼びになったのですか」
実際の腐ったカレーの臭いがどのようなものであるかは甚だ疑問であるが、その比喩は一人の女性を指したものであることは容易に読み取れる。というよりは、読み取れないほうがおかしい。
それで合点がいった。秋葉が何故殺気立っているか。知得留先生が庭にいるらしいので秋葉としては面白くない、というよりは不快なのだ。何故かアルクェイド、シエル、秋葉の三人は犬と猿に蛇が混じったように殺人的に仲が悪い。それぞれが誰を指しているかはあえて言うまい。
その蛇……もとい秋葉が艶やかな黒い長髪を段々と赤に染めていく様を見るのは非常に寝覚めが悪い。志貴は窓から庭を見下ろした。
いる。確かにいる。漆黒の法衣が風にたなびいている様が明かりのない夜だというのにはっきりと視認できる。
「……先生、何かただ事じゃないような雰囲気だな」
「ええ、私もただ事ではありません。腐臭の染み付いた大量殺戮者風情が我が家の庭に不法侵入……気がどうにかなりそう。どうにかなりそうで殺してしまいそうですわ」
非常に不穏当かつ不吉な発言を残して、秋葉は庭へと歩み去っていく。それに追随して琥珀が、翡翠は志貴の傍らに身を置いた。
「まさか、な」
「よろしいのですか、志貴さま。あの様子ですと秋葉さま、本当に一戦交える気でいらっしゃるようですが」
「やっぱりかーーーーー!!」
極めて簡潔に、淡々と言っているようだが翡翠もそれを恐れている。何しろ人外とも呼べる二人の戦闘は、近隣を破壊し尽くしかねない様相を呈するので実際、恐怖に値する。
走った。とにかく庭に早く到達しなくては。
「間に合っ……」
やっと扉を開けて庭に到達した頃には。
髪を真っ赤に染めている最凶の妹と完全武装している殺戮の聖職者が睨み合っていた。
「……ってねぇ」
既に長髪の全てを真っ赤にしている秋葉は不敵な笑みを浮かべてシエルを見据えている。怒りを通り越してしまうとそこにあるのは愉快さだけだと言わんばかりに口許を吊り上げ、赤いオーラを漂わせる。
「遠野の屋敷に不法侵入。それだけで万死に値します。骨の貰い手はいますか?」
「私がここにいるのは吸血鬼を始末するためです。遠野くんにもあなたにも用はありませんのでお気になさらずに」
秋葉にとって無理難題なことを平然と言ってのけるのは素直にすごいと思った志貴だった。
「屋敷の中に五月蠅い犬がいてはおちおち茶も飲めません。早々にお引取りを」
「吸血鬼……死徒はこの遠野の屋敷に現れます」
「ならば後は私たちが処理します。あなたの手は煩わせません」
段々と苛立ちが立ち上ってくるのが分かる。だが、シエルの言葉はあながち無視できるものではない。死徒がここにやってくる?それはどういうことなのか。
「先生、死徒が来るってどういうことだ?」
「兄さんは黙っていてください。私がこの件を処理しますので、兄さんはどうぞお休みに」
「そんなわけにもいかないだろ。死徒がここに来るってんなら最悪俺もやり合わなくちゃいけない。で、どういうことなんだよ先生」
シエルは溜息を吐いて志貴を見た。どうしてこう、厄介ごとが彼の身の回りで起きるのか。少しばかり神を恨んでもバチは当たるまい。
口に出してはこう言った。
「お答えできません。あなたにはそれこそ関係の無い話だ。一般人を巻き込むのは御免です」
冷徹な瞳で志貴を見遣る。が、それに臆した様子もなく少年は真っ直ぐにこちらを見返す。どうにもいけない。あの真っ直ぐな瞳では嘘をつきたくなくなってしまうではないか。だがこればかりは志貴に話すわけにはいかない。自分が彼女を、シオン・エルトナムを殺そうとしているなどと知れば必ず彼は立ちはだかる。そうなれば厄介だ。シオンの浄化は難しくなってしまう。
何より、代行者たるシエルの前に立ちはだかるということは死を意味する。それが例え血を分けた肉親でも、親友でも……恋人でも。異端を庇うということはそれだけで異端であるということ。人が魔を受け入れる道理は無い。そんなことは教義には存在しない。だから、もし志貴が立ちはだかるようなことがあれば代行者としては殺すしかなくなるのだ。
だが、それも遅い。
「……やはりいましたか代行者」
蒼みがかった頭髪が揺れて、シエルの背後に立つ。シオン・エルトナムは驚くほど堂々と正門を乗り越えてやってきたのである。シオンの姿を捉えて、シエルはどこからか黒鍵を三対構えた。
「シオン……!?シオンなのか!?」
志貴が驚くのも無理は無い。
シオンは、表面上は平静を装った。
「志貴。久しぶりです。息災そうで何よりです」
「この状況を息災と言えるかは置いといて……まさか先生、死徒ってシオンのことか」
黒鍵をシオンに構えたまま微動だにしないシエルは微かに視線を志貴に投じた。
「……そうです。彼女には討伐命令が出されている。私は教会の意向により彼女を殺さねばなりません」
「待ってくれよ、先生。シオンが何したって言うんだ。人を殺してもいないし血を吸ったわけじゃないんだぞ。討伐ってのは少し大袈裟に過ぎるんじゃないか」
シエルは黒鍵を下げてじっくりと説明することに決めた。そうでないと本当に彼は自分の前に立ちはだかってしまう。
「そうですね。ですが彼女にはワラキアの残滓がある。いつ衝動に駆られて人を襲うか、分かったものではありません」
「な、そんなのは絶対に無い!今までだって彼女は精神力で押さえつけていたんだ」
彼の言うことは正しい。彼女の瞳も赤くないし、至って正気を保っているようだ。だが、それがこの先まで続くかは保障できない。もしかしたらこの瞬間にも彼女は死徒として目覚めてしまうかもしれないのだ。今までが大丈夫だったとしても、それは今までのことで、これから先がそうであるとは誰にも断言できない。ましてや死徒二十七祖の血だ。今は滅びてしまったとは言え、その支配に身を委ねればきっと力を持った吸血鬼の誕生となるであろう。
「彼女は死徒二十七祖であるワラキアの血を受けている。今は衝動を抑えられているようですが、これからは分かりません。気を許した隙に……ということも考えられる」
「そんなことは無い。絶対に無い。俺がさせない」
例え彼女が衝動に駆られても、前回のようにやり合えばきっと止められる。志貴はそう確信していた。いや、これから先も何もない。シオンは死徒ではないのだ。吸血衝動など、そう、ただ痒いだけに過ぎない。
「遠野くん。諦めなさい。彼女はここで殺します」
と、志貴に背を向けた瞬間、いつの間にやら志貴はシオンを庇うようにして立っていた。少しの隙も見出せない、完璧な移動速度と姿勢。最悪の状況だ。やはり彼はこういう男なのだ。他人のために自らの体を投げ打てる精神。全く愚直な心。
「シオンは渡せない。先生こそ諦めてくれ、この子がうちに来た以上、俺を頼ってきたということだ。みすみす渡すわけにはいかない」
眼が本気と訴えている。純粋な力勝負では勝ち目は無いというのにこの闘気。しかも彼は見たところ武器を所持していない。彼の手の延長とも言えるあの短刀が握られていない。それでも、やるというのか。
シオンとしては予想通りの展開だった。彼はそういう男だ。自らの危険を顧みずに頼られた以上はどんな強大な相手であろうと退かない。それは素直に嬉しいことだが、彼女は別の意味でも嬉しかった。
自分を渡せないということ。ただそれだけが純粋に嬉しかった。
「退きなさい遠野志貴。いくらあなたでも殺しますよ」
ぷつん。ざわざわ。
何かが切れた音がして、今度はざわめく音。音の発信源は分かっている。先ほどから妙に大人しい黒い……赤い蛇だ。
「シエルさん。黙って聞いていれば好き勝手なことを……兄さんを殺すですって?しかも呼び捨てに……遠野の長男を手にかけるというのなら私が、遠野家がお相手しましょう」
これ以上無いというくらい髪を真っ赤に染めて秋葉の殺気は沸点超過だ。何に怒っているかと言えば、呼び捨てにしたことを一番怒っているに違いない。
長髪が風も無いのにざわめき、重力を無視してヤマタノオロチのように蠢く。髪の毛を自在に操れる秋葉の能力である。
生物から熱を奪う「略奪」という異能を有する彼女の能力が発現した場合、その様はさながら対象を焼き尽くしているように見えるがその実、熱を奪っているから凍結しているというほうが正しい。
シエルは思いを至らした。果たして鬼種の混血と霊子ハッカー、直死の魔眼使いを相手にどれほど原形を留めて死ねるか。対集団戦闘も習得してはいるが彼ら相手に楽観はできようはずもない。シエルは黒鍵を法衣に仕舞った。
「……私も甘くなったものです。ついつい見逃してあげようなどと思ってしまう」
「え、それじゃあ先生」
彼女は苦笑して眼鏡を掛けた。
「遠野くんのおうちの外国の知り合いが逗留されるんですよね?それなら私がとやかく言うことではありませんね」
よかった。さすがは知得留先生、物分りがよいというか……慈悲深い。そう志貴が心底感謝したとき。
「でも、遠野くん。今度は私でなくて秋葉さんを説得しなければね」
とんでもないことを言った。
それじゃ、と身を翻して華麗に跳躍し、遠野邸の敷地から消え去っていった。
残されたのは志貴と秋葉、シオン、それに駆けつけてきた翡翠に事態の把握できない琥珀。沈黙を破ったのは秋葉だった。
「で、兄さん?あの人が言った通り私にもご説明願えないかしら?その女が一体何者なのか」
女、と言っている辺り敵対心剥き出しの秋葉。礼儀だとかそんなものは遠い次元の彼方に吹き飛んでしまっているようだった。
これにあろうことかシオンが答えた。
「私はシオン・エルトナム。アトラスの錬金術師です。志貴とは以前、吸血鬼退治の折に知り合いました」
「志貴ですって……!?」
おかしなところに反応するな、と志貴とシオンは思った。琥珀は笑いを押し隠し、翡翠は目を伏せて佇んでいる。
「兄さん、本当ですの?」
「ああ、本当だよ。タタリっていう死徒を斃したときに知り合った。あの後別れてしまったんだけど。どういうことなんだシオン」
「話すと長くなってしまうのですが……」
琥珀が察した。
「ここで立ち話もなんですからお屋敷に入りましょう。お茶もお出ししますよ」
「そうして頂けると非常に助かる」
「っ!待ちなさい、私は許しませんよ!こんな得体の知れない女……」
「秋葉。暴言は許さないぞ」
珍しい。志貴が怒っている。それはこの場の誰もが驚いたことだろう。
秋葉は素直に自らを謝した。
「……すみません」
「……いいえ、志貴。私は遠野秋葉の言うとおり得体の知れない女です。この国の人間ではないし志貴としか面識は無い。遠野秋葉が謝る必要は無い」
「シオンが言うならいいけど……秋葉、とにかくこの子は俺の友達なんだ。俺を頼って来てる。秋葉には迷惑かも知れないけど、家に上げてもらえると助かる」
「……分かりました、兄さんの友人ということなら遠野家の客人です。丁重にもてなしましょう」
少し拗ねたような秋葉の表情が可愛らしかった。
「そうか。ありがとう秋葉。迷惑かける」
何より当主は妹の秋葉であり、無理な願い事であるのは承知しているので志貴は素直に頭を下げた。それに同調してシオンもまた頭を下げる。
「迷惑だなんて……兄さんの友人でしたら私も信用します。先ほどは大人げなかったのかもしれません」
そう言って黒髪の少女は微笑んだ。
シオンは簡潔に、かつ話の本質を省略せずに話した。タタリを滅ぼした後、アトラスに帰って次期アトラス院代表者たるアトラシアの称号を返したこと。教会に追われて世界各地を転々としていたこと。日本に来てから埋葬機関らしき信徒と戦闘したこと。志貴は真剣に、秋葉は面白くなさそうに、翡翠は目を伏せて佇み、琥珀は面白そうな表情でそれぞれ聞いていた。
人数分の紅茶が湯気を揺らして中空に消える様を眺めていた秋葉はシオンの話が終わると鼻を鳴らして問うた。
「するとあなたは魔術師というわけですか」
秋葉の眼を見て頷く。
「はい。一応はその部類に入るでしょう。魔術回路自体そうそう多くありませんが確率と統計を支配するアトラスの錬金術師です」
「で、シオンさんはどういう用件で兄さんを?」
程よく冷めた紅茶を一口、音を立てずに口にする。
「はい。これは志貴というよりは当主であるあなたにお願いすることですが……少しの間宿を貸して欲しいのです」
「……それはこの家に居候させてくれと?」
音も立てずにティーカップを置いて、秋葉は見るからに不機嫌な表情を見せた。それも仕方のないことだろう。いきなり押しかけてきて居候させてくれ、では無礼にも程がある。
厳密に言えば秋葉とシオンは初対面ということではない。タタリを追って街を巡回しているときに一度だけ顔を合わせている。それも、今回と同じような表情を見せて、同じような反応をされて、である。タタリを滅ぼしたことで秋葉の記憶からは薄れてしまっているが。
秋葉の表情は不機嫌そのものだが不愉快というわけではなさそうだ。傍に控えていた琥珀が流し目で居心地が悪いわけではないような彼女の主人を見遣った。
「秋葉、俺からも頼むよ。彼女は教会に追われてる。それがどんなに危険かってことはよく分かるんだ。力になってあげたい」
「…………」
伏せていた眼を兄に向けて、すぐにまた伏せる。
全く。本当にお人よしなのだから。それはそれであの人の魅力なのだが、その相手が女というのが気に食わないと言えば気に食わない。もっと、妹にもお人よしを向けてくれてもいいだろうに。
そう思った途端に溜息が出た。そしてその溜息が、根負けした合図だということを琥珀は分かっていた。
「分かりました。兄さんがそこまで仰るなら私はもう何も言いません。好きなだけここをお使いなさい」
「秋葉」
志貴の表情が明るんだ。
「感謝します、遠野秋葉。ですが無償で、というのは心苦しい。宿を貸していただく代価としてエルトナム秘伝をお教えしましょう」
「秘伝?」
「エルトナムが名家たりえる所以。すなわちエーテライトによる他人への干渉です」
しゃら、と腕輪を鳴らしてみせた。黄金に光る腕輪自体は高価なものではなかったが、そこから引き出されるナノ単位のフィラメントはアトラスにて名を馳せるエルトナム秘伝の極意、他人の思考や行動自体に干渉し、制御してしまう糸。元々は医療用の擬似神経だったのが魔術用に特化されたものである。ナノ単位のフィラメントは人間の皮膚に痛覚を刺激することなく入り込み、そのまま神経と直結し、掌握する。神経、つまり人体の運動を掌握された人間はマリオネットとなり、術者の意のままに動かされる。万が一、フィラメントが切断されたりした場合、最終的には消滅してしまう。入り込んだ神経も焼き切りながら。
このシオンの言葉に、秋葉は思いついた。
「……それは操り人形にすることもできるということ?」
「それもできるでしょう。意味がありませんのであまりやりませんが」
それは。兄を意のままにどうにかできるということでは。
志貴は背筋に冷気が通ったような気がして後ろを振り返った。そこには翡翠がいたのだが、関係は無い。
「よろしいでしょう。あなたを賓客として迎えます。琥珀、丁重にもてなしなさい」
「ありがとう、遠野秋葉」
「私のことは秋葉、とお呼びなさい。私もあなたをシオンと呼びます。これからは師弟、対等の友人なのですから遠慮はいりません」
秋葉の豹変ぶりに志貴は合点がいかなかったが、何にせよ解り合ったことはよいことだ。それで胸を撫で下ろすことにする。
一方、琥珀はくく、と笑いを堪えてその様を見ていた。