V
「空腹です」
そんなことを口走るほどにシオンの体は食を欲していた。千葉県には到達したものの、三咲町がどこにあるのか全く分からない。通行人の記憶を引き出してみてもよく分からない地名が出てきて、しかも道にある看板の文字など読めないし、かれこれ二日は千葉県を歩き続けている。
日本の街並みは独特だ。背の低い住宅が並んでいるかと思えば、少し行ったところには高層ビルがそびえ立つ。空を見上げながら歩いていると、今度は見渡す限りの緑、または黄金色の草原が視界を支配する。無論そんなところは外国に行っても存在するが、日本のそれとは少し違う。都会の無機と自然の有機とが融合した特異な風景を有している。それは異国人にとって感歎の声を上げさせるに十分であろう。
シオンもまたその風景に感心した。やはり極東の日本という国は他の国にないものを持っている。独自の文化と風景と人格を作り上げているのだ。どこか忙しないようでのんびりとした感があるので、志貴もその風土に大いに影響されているのではないか、と思う。
「……いけないな。こんなことをしている場合ではないのに」
通行人にエーテライトを侵入させて記憶を引き出す。比較的良質な記憶を有していて、三咲町の方角をリードできた。推測でここから四キロメートルほどか。
「……代行者。機会はいくらでもあったでしょうに」
シオンは顔を向けずに背後に言った。おおよそ人間の営みに融け込まない格好と雰囲気を、分かる人間には極めて嫌悪される埋葬機関の代行者たる彼女はスーツ姿だった。黄色のチョッキに白いYシャツ、ダークブラウンのスカートに黒のハイヒール。黒のショルダーバッグを肩に掛けて、日本人のそれではない整った顔立ちの女性は眼鏡の奥に鋭い瞳を押し隠している。
シエル――現在の出で立ちは知得留だが――は異端の少女を矢のような視線で見据えていた。
「まさか。こんな街中でやろうとは思いませんよ。殺すこと自体は難しくありませんが」
「あなたがこんなところにいるとは予想外でした。そんな格好で何をしているのです?」
「あなたと違って私には公人としての立場と仕事がありますので。高校の教師をしています。今は出張でたまたまここにいますけど……シオン・エルトナムに遭うとは僥倖と言うべきでしょうか」
シエルの体から余裕が無くなった。触れれば切れてしまう日本刀の刃のような感覚がシオンを襲った。これだ。埋葬機関の、人間とも思えない殺気を一身に受けて、シオンは身じろぎした。こちらの心を締め付けてくる感じ。少しの気の緩みも許さない圧迫感。
「シオン・エルトナム。あなたの討伐命令が出ています。大人しくしていれば楽に殺してあげましょう。抵抗すれば、魂も残さず殺す」
どちらにしろ殺されることには変わりがない。だが現在の場所を考えれば派手なことはできない。街の真ん中で流血沙汰になればすぐに噂は街中を駆け巡り、シエルにはいささか不利に働く。そんな愚行を彼女がするわけはない。
シエルは眼鏡を掛け直して五体を緩ませた。
「まぁ、ここでやろうとは思いませんがね。どうせ目指すところは明らかだし、待ち受けてあなたを殺すことにしますよ」
そう言って踵を返す。その背中には先ほどまでのオーラは感じられないが、少しでも敵意を見せれば白銀がシオンの喉元に突き刺さるだろう。
また、厄介なことになった。シエルの言葉は、きっと実行されるだろう。遠野邸で黒い法衣に身を包んだ殺戮の徒は葬送を奏でる黒鍵を手に彼女を待ち受ける。そうして始まる死の宴。それが彼女たちの日常である。
血の臭いと腐臭と飲み込まれそうな赤色。
さて、代行者はこの私を殺すことができるだろうか?
恐らくは無理だろう。彼がきっと立ちはだかってくれるから。頼みもしないのに誰かを守るために身を投げ出すことができる人。心を砕くことができる人。私は彼と約束してしまった。吸血鬼化を治療する方法を研究し続けると。私は優等生だから軽蔑されるのは耐えられないのだ。
だから研究し続ける。だから生き続ける。だからとりあえずは。
――――待っていなさい、志貴。
流血行程 了