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貨物船の中はひどく揺れている。恐らく嵐にでも遭っているのだろう。シオン・エルトナムは船が苦手ということはないが、しかしそれでもこの揺れにあと三〇分も身を預けていれば本格的に胃の中のものとの格闘になる。もっとも、胃の中にろくなものは入っていないが、しかし吐くものがなくなった胃は胃液を無理に出してくるので胃の中のものを出しているときより遥かに辛い。
シオンはかれこれ四時間近く船に潜入している。一度出航したものの、嵐がひどいと言うので香港に戻って、治まってからまた出航したが、今に至っている。
おおよそ通常の波による揺れ方ではない。荷物はロープで括られていて右往左往することはなかったが、シオンは別だ。ロープに掴まって転がることのないように体を支えていた。貨物室には窓がなかったが、海の様子は容易に想像できた。甲板まで至る波はもう数十度に達し、転覆しそうなものはなかったとは言えこれからもそうであるとは言えず、船内は大いにその猛威に揺れていた。
「…………」
シオンは無言で体を支えていた。
一時間の後に嵐は治まり、日本の領海に入り、福岡に到達した。貨物を運び出す人間に紛れて脱出し、シオンは福岡の港から出た。
久しぶりの外の空気。大きく深呼吸して肺の中に沈殿していた古い空気を循環させて、血に乗せて全身に行き渡らせる。それまでの嘔吐しそうな気配は空中に四散していってしまったように、シオンの体は活力を取り戻したようだった。大きく伸びをして、迂闊にも欠伸が出てしまった。いけない。気を引き締めねば。いくら極東の地と言ったって代行者たるシエルの滞在する国だ。どこに網が掛かっているか知れたものではない。油断は即、死に繋がる。
左手のエーテライトを街行く人に繋げてみる。
……なるほど、駅はあっちか。腕を軽く振るってミリにも満たないフィラメントを回収する。
「確か志貴の街は三咲町と言ったか。人伝いで探すしかないな」
以前に滞在したことがあると言ってもそれは成田空港からの話だ。福岡からの道順は全く知らない。また、人の記憶を盗み見るしかないのか。
深い、ほの暗い意識の底から。それはやってきた。
――――シオン・エルトナム。我が一族の末姫。愚かな娘。
不愉快な声色のあなたは誰ですか。
――――ズェピア・エルトナム。我が一族の一人。愚かな人。
人?笑わせないで下さい。あなたは鬼だ。自身を卑しい鬼と化した、弱い化け物。
――――吸血鬼。我が一族を陥れた、象徴を真紅とするモノ。
夢ですか?夢であってもあなたと話すことは最早ありません。早々に消えなさい。
――――シオン。私はね。知ってしまったんだよ。
…………
――――どうあっても覆されることのない唯一つの原理。停車駅は無限にあるのに、終着駅は一つしかない。しかも必ず、終着駅で降りなければならないというルール。誕生の旋律と滅びの凱歌。
黙りなさい。
――――君も、いつかそうなる。鬼を脱する方法は唯一つ。
黙りなさい……!
――――シネ。
「黙れと言うのに……!!」
目が覚めたようだ。本当に、久しぶりにきちんとした宿に宿泊しているというのに、滅多なものを見てしまった。疲れていないというのか。疲れていれば夢など見ずに済むものを。
シオンは布団から起き出して障子を開け放った。ガラス戸をスライドさせて外気を部屋に浸透させる。
ああ。月が綺麗だ。雲に翳ろうとしている月は何だかおとぎ話みたいだ、と思う。かぐや姫が竹取の翁との別れを惜しんでいるようで――――
自分はいつからこんなセンチメンタリストになったのだろう。少女趣味など、微塵も持ち合わせてはいない。久方ぶりに休んでいるので、気が緩んでいるのか。
シオンは宿に宿泊している。教会の追撃ももちろん懸念されるところだが、日本のキリスト教のお膝元である九州では危険性も増すが、しかし元々日本、極東の地は教会にとっても協会にとっても「管轄外」でしかない。確かに日本にも魔術師はいるが、エクセキューターが滞在していることはほとんどあり得ない。シエルという例外はいるが。
「ワラキア。あなたは私の体の中にいつまでいるつもりなんですか」
夜空の月は、ただ煌々と揺らめいていた。
ただただ歩を東へと進める。七月に近づくにつれて気温は上昇し、シオンにとっては随分と辛い。日本人でないシオンは高温多湿の日本の気候には慣れておらず、また吸血鬼化した体は日光にはいささか弱い。何故かは明らかになっていないが、吸血鬼が月の女神の恩恵を受けているからだとか、太陽神に反逆したからだとも言われている。
シオンは三咲町の場所を正確に覚えていたわけではなかった。確かトウキョウの方角だ、とまで記憶している。何しろ日本、ひいてはアジアの漢字を用いる地名は小難しくていけない。香港、という地名も発声すれば分かるものだが漢字表記されていれば一瞬では納得しまい。トウキョウはフクオカからはどう行くのか彼女には分からなかったし、ミサキチョウという名前自体、発するのには苦労する。エーテライトの恩恵で流暢な日本語を喋ることができるものの、それは発声という点に関してだけである。読み書きにはまだ慣れておらず、エーテライトであってもそれは補ってくれなかった。
「三咲町……チバ……?」
通行人からエーテライトを取り外して、千葉へ向かう。
と。血の臭いと殺気が入り乱れた腐臭がシオンの鼻腔と感覚を満たした。この独特の不愉快な感覚はまず地上に一つしかない。
「教会」
振り返った先に姿はなかった。やがて林の中から一つの黒装束が姿を見せて、シオンは眉をひそめた。
何て、殺気。黒の法衣と頭髪が血に染まっていないのがおかしいくらいに、それは生物を圧倒している。ブーツを鳴らして歩み寄る教会の人間は、おおよその化け物を問題としないような威圧感があった。
「驚きました。日本に埋葬機関が派遣されているとは」
「こちらこそ驚いた。まさか日中に出歩いているとはね。日光は辛かろう」
低く響いた声には感情がない。同時に顔にも表情はなかった。漆黒の神父は腰から黒い銃を取り出して撃鉄を起こした。マガジンには刻印を施された銀の銃弾が一二発装填され、今のシオンには効果覿面であろう。人間と吸血鬼の間を彷徨っているシオンは、吸血鬼ほど頑強でなく、人間ほど脆くない。ただの人間であれば銃弾である以上致命的だが、半吸血鬼のシオンには致命傷たり得ない。そこで魔を滅する銀を使うことによって効果を高めているのである。銃弾である以上重傷は避けられないし、銀である以上は致命的だ。
銃口からの黒光りは、シオンには恐怖の対象とは言えない。弾道は予測できる。あとは彼の身体能力と射撃に対する熟練度。
「日本に埋葬機関は駐屯でもしているのですか?」
「ただ派遣されているに過ぎないよ。こんな島国、吸血鬼の興味を引くものはないからな」
「それでも、真祖の姫君はいますが」
神父の眉がぴくりと動いた。銃口を下げて、天を仰ぐ。
「真祖か。世界より生まれた精霊と言われている……案外本当かもしれないな。世界とて永遠であるわけではない。彼らも永遠であるわけではない。世界が滅びれば彼らも滅びる。精霊といわれる彼らとて滅びるのだ、人間が滅びるのは当然のことなのだろう」
シオンは眉をひそめた。
「世界とて滅びを免れることはない。だが、世界は再生することができる。無論、吸血鬼もな。再生することができないのは人間だけだ」
「……何が言いたいのですか」
「真祖は世界によって再生されることを許される。だが人間は?何故許されないのか。それは、主が人間を罪深いとお考えになられているからではないか」
それは真祖を認めるということか。神による寵愛を受け、世界によって庇護された存在だと。
彼は不用意な発言をしている。教会にとって真祖は異端である。その真祖を認める発言は、すなわち彼も異端であると言っているようなものだ。シオンは神父を訝しげに見た。埋葬機関である彼の不用意な発言は、何を意味しているのか。
「そんな怪しまないでくれ。俺は君を殺すよ」
再び銃口を向ける。その黒光りは鈍重にシオンを捉えた。
「ただ、単なる可能性の話だ。彼らが言うように彼らは精霊の一つで、世界、ひいては神の意志なのではないか、ということ。そして死徒は……それを嫉妬した人間の哀れな末路ではないかということ」
「それを何故私に?」
「さてな。俺の単なる独り言だ」
来るか。シオンは感じ取っていた。わずかな呼吸の流れの違いを読み取り、シオンは腰にある銃に手を遣った。
それを合図としたか、神父は発砲した。その弾道を予め察知していたシオンの左足が地を蹴って、その体を林へ滑らせる。黒い銃口から硝煙が噴き出て銀の銃弾がシオンを目掛けるが、木々によって阻まれる。
自分の体を隠せるほどの木に背を当てて死角を無くす。だが彼相手にはやらないよりはまし、という程度であった。身体能力を極限まで上昇させる術を持つ埋葬機関の信徒には瞬時に間合いを詰めるのと同時に跳躍によって上を取られることもしばしばである。それは吸血鬼化した者、死徒や半吸血鬼化しているシオン自身でもそうであると言える。半吸血鬼化しているシオンの身体能力は本来のそれとは比較にならない。本格的に吸血鬼と化してしまえば埋葬機関に引けを取ることは皆無になるが、今の状態では多少の性能差は感じられる。
彼女もよく知る代行者、シエルは主に近接戦闘を得意とする。彼女の知る限りで、シエルは銃器などの射撃類を使用したことはなかった。黒鍵、第七聖典という特異な型も存在するが、あれを射撃とは言うまい。とにかく、彼女こそ身体能力の上昇という点でも最高の使い手であり、直接打撃を叩き込んで魔を裁くのには突出している。だから不死の体でなくなった現在であっても埋葬機関の代行者という地位を戴き続けているのだ。
そのシエルとも志貴がいたことでかなり手加減してくれたこともあるがまがりなりにも渡り合ったほどだ、シオンには一縷の望みがあった。
静寂が林を包んでいた。埋葬機関の十八番でもある結界の恩恵によって林の中と周辺数十メートルに及んだ地域には音も聞こえなければ近づこうとも思わない。聞こえない、というのは少し正しくない。確かに耳には届いているが結界の力によってそれが音だと認識されていないのである。気にならない、と言ったほうが正しいか。
近づこうと思わないのは、人間の中にある無意識を操作しているからである。例えばそこに落とし穴が作られていると知っていればわざわざ落ちに行く人間がいないように、「巨大な落とし穴があるぞ」と無意識に刷り込ませてしまう。無意識にダイレクトに繋げてしまい、フィールドを作り上げて仕事をしやすいようにしているのである。
シオンは木の陰から林の様子を窺った。緑が眼を支配してしまうと不吉な威圧感がシオンの感覚を麻痺させた。すぐに顔を引っ込めて深呼吸をする。額に脂汗が流れる。何だあれは。本当に人間か。人間の皮を被った死を纏った悪魔ではないのか。彼の姿は見えないのにはっきりとこちらに突き刺してくるような殺気が届く。気合だけでこちらの心臓をもぎ取るような錯覚。殺しのエキスパートとはあれを言うのか。
血が騒ぐ。沸騰するようだ。
熱い。熱い。熱い。殺せと。アレを殺せと言っている。確かに、この何とも言えない焦燥感、殺されるかもしれない恐怖、殺らなければ殺られるという緊迫。これらを駆逐するにはアレを殺さなければならないだろう。
だが、できるか。
半分以上が生身の人間である自分が、アレを殺すことができるのか。服を着た殺意を殺すことができるのか。
もう一度深呼吸して、シオンは林を窺った。瞬間、銃弾がシオンの背にしていた木に当たって幹を砕けさせた。貫通には至らないがそれはシオンを大いに狼狽させた。顔を引っ込めて腕だけを出して銃弾が来た方向に三発放つ。静寂に飲み込まれて消え、シオンは移動した。ここは駄目だ。もう位置を把握されてしまっているし、知らせてもいる。常に動いていなければ。この時点で死を享受する気には到底なれない。
横に向かって走り出すと、足元に銀の銃弾が沈んでいく。明らかにこちらの動きを一〇まで把握されている。飛んできた方向へ五発放って、身を木陰へ滑らせる。
三度、静寂。
奴はどこにいる。予測する。林の中にいると断定し、最も高い確率を誇るのは半径二〇メートル以内の……上。
上ならばこちらの動きは全て把握できるしこちらから逆撃を受けずに済む。だが、どの上だ。真上でないことは確かだ。真上ならばすでにやられている。だが、シオンの予測は外れた。いや、それともこちらの予測を予測したのか。顔を正面に戻した瞬間に銀が迫り、シオンは寸でのところで身を屈ませて額に風穴が開くのを免れた。もし本当の生身であったなら間違いなく脳に穴が空いていただろう。動体視力も人間のそれとは比較にならない半吸血鬼化の僥倖と言うべきか。
再び駆け出す。シオンが集中すればするほどに彼女の血が脈動し、渇すれば渇するほど求めるために運動性を増す。神父からの銀の銃弾をことごとく避け、反撃の銃弾を放つがいずれも直撃しない。
木陰に隠れてマガジンを交換する。ゴトリ、と鈍い音を立てて空になったマガジンが落ち、上着のポケットから九発の弾が装填されたマガジンを取り出して換え、撃鉄を起こす。その動作は素人から見ても十分速く、隙とは言い難いものだがこの種の戦闘においては貴重な時間と隙を敵に与えてしまうことになる。この動作一つで命を落とすことも十分考えられるし、あの神父ならばその一瞬だけで五人は殺せるだろう。だがシオンはあえてそれをした。敵も同時にマガジンを換えていると予測したからである。結果それは的中していたし寸分の違いもなく同時に換え終わったのだからよいのだが、シオンはこのとき銀の銃弾に込められた式典について想像の翼が及んでいなかった。
そして、シオンがある範囲に到達したときにそれを神父は発動させた。
「障音式典。範囲内限定」
呟くのとほぼ同時に、シオンの聴覚は異常をきたした。極めて高い域の音がシオンの耳をつんざき、それは錯覚に過ぎないのであるが、シオンを大いに悶えさせた。
つまり、銀の銃弾には障音式典が封入されており、直撃せずに木や地面に突き刺さった銀の銃弾という点を線で結んだ範囲内において、障音式典はその効果を発揮する。
「あぐぅ、ああ……!!」
鼓膜が今にも破裂しそうな音に耳を押さえて抗するが、それは意味を成さない。錯覚であるから防ぎようがないのだ。錯覚である以上鼓膜が破れるということは有り得ないし、式典を解除するか彼女の生命活動を停止させる以外には障音を消し去る術は無い。
銃を落として耳を押さえ、シオンは膝をついた。
静かに、静かに神父は歩み寄った。一撃でよい。たったの一撃で半吸血鬼化したお尋ね者のこの少女を殺せる。この引き金を引けばそれでお終い。だが、この違和感は何だ。蜘蛛の巣のような感覚。包囲されているような感じ。
「ち、エーテライトか」
シオンの両腕の腕輪から張り巡らされた一ミリにも満たないフィラメントの蜘蛛の巣はシオンが居た場所全てに巡っている。彼がそのフィラメントに触れればそこから体内に侵入し、神経を掌握する。もし彼がシオンを殺せば、それは起爆スイッチとなって神経を焼き切るのだ。状況が変わっただけで以前に志貴を脅したときに使った手と同じである。
神父は銃を下ろした。撃ち出した一九発の銃弾のどれか一つでも欠ければ障音式典は解除される。地面にめり込んだ銀の欠片を取り出して表面に彫られた刻印をナイフで削り取った。シオンから錯覚が消え去って耳をつんざく障音から解放される。
「したたかだな。なるほど、ゲリラ戦ではこちらに勝ち目は薄いということかな」
落とした銃を手にとって帽子を被り直す。シオンの額からは多量の汗が噴出していて、それを手の甲で軽く拭った。
「さて、どうしようかな。ここでやり合ってもこちらに分が悪いということが判明してしまった」
神父は銃を腰に遣って空を仰いだ。天気のいい日だ。不謹慎極まりないが、この少女を逃がしてやってもよいという気になってきた。
というよりはそうする他に道がない。その気になれば彼女はこちらが気付く前にエーテライトで事を済ませられたはずだ。そうしなかったのは、彼女に人間の甘さが残っていたからだろうが……。
漆黒の法衣を翻して神父は背を向けた。
「行けよ。俺は誰にも遭ってないし何も見ていない」
「……いいのですか。教会に知れればあなたも異端ですよ」
「言ったろう。こんな島国、吸血鬼の興味を引くものはない。こんなところに派遣されているのは俺と、物好きな女が一人くらいだ」
そう言い捨てて神父はゆったりとした歩調で歩み去っていった。足音も立てずに去っていく様は何かの幻か、夢のようにさえ感じられたのだった。
途端に木の葉がざわめき合う音が聞こえ、小鳥や蝶などの生き物が姿を見せた。どうやら人間だけでなく、生物全てに作用していた結界らしい。それとも、彼の吹き飛ばされそうな殺気のためか。シオンとしては後者を挙げる。何故か随分手加減をして見逃してくれたからよかったものの、アレが本気でやってくれば歯が立ちそうにない。
とにかく、これで目的地まで何の障害もなく行ける。途端に意識が遠のいてゆく。体力が低下しているというのに極限まで緊張したせいか。三咲町に辿り着くまで倒れられないというのに。
「…………しき」
眼鏡の優しい笑顔が、彼女の脳裏から離れなかった。