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 アフリカの山脈の奥深くにそれは存在した。多くの錬金術師が学ぶ学び舎、アトラス院は非常に閉鎖的であり、院生であってもほとんど交流をしない。自分の研究の成果は自己のみに公開し、決して門外に出してはならぬ。それがこのアトラスの決まりであった。だが、それを破った者がいた。

 名をシオン・エルトナム・アトラシア。アトラス院次期代表者たる錬金術師。彼女は、アトラスの次期学長とされていた。しかしどういった訳か、彼女は禁を犯してアトラスを離反した。他の魔術師と交わり、情報と研究を交換したのだ。

 遡ること三年、彼女は騎士団と共にある吸血鬼を討伐に出た。

名をワラキアの夜。通称タタリと呼ばれる、吸血鬼の中でも異端とされる死徒二十七祖に分類されるもの。シオンはこのワラキアの夜と戦い、敗れた。騎士団は全滅、自身も体を異端とされてしまい、以後、彼女はその吸血衝動に耐えながらワラキアを追った。

それが日本で終幕を得ることになる。元々彼女の予測の範囲内であったはずのイレギュラー、遠野志貴と真祖の姫君であるアルクェイド・ブリュンスタッドの助力を得てワラキアの夜、ズェピア・エルトナム・オベローンを滅ぼすことに成功。完全にワラキアの支配を断ち切ることに成功したのである。

だが、彼女の戦いは終わったわけではなかった。ワラキアを滅ぼしたものの、依然として体には彼の残り香が回っている。吸血衝動は度々起こるし、彼女が吸血鬼にならないとは言えないのだ。

日本でシエルという埋葬機関の代行者と遭遇してしまい、それ以前にも協会から手配されているシオン・エルトナムは教会にとっても無視できない存在である。あの死徒二十七祖の血を分けられたシオン・エルトナムだ、錬金術師としての才覚も手伝って予想を遥かに上回る死徒となるに違いない。少なくとも教会はそう断定した。

シオン・エルトナム・アトラシアの、討伐を決定する。

日本にいるシエルにそれは伝えられ、ワラキアの夜討伐後、遠野志貴と別れたほんの数分後に彼女は志貴の元に駆けつけた。

「シオン?あの子とはもう別れたけど?」

「どっちに行ったか知りませんか」

 志貴はただならぬ気配を感じ取って虚言をした。彼女が行った方角とは違う方向に、走り去って行ってしまったと。思えば、志貴はとんでもない罪を犯してしまったのかもしれなかった。教会が死徒と断定した者を討伐するように命令された代行者に虚言をするとは、それだけで万死に値したかもしれない。しかし、シエルはその罪を赦した。志貴が嘘をついたと、初めから分かっている。彼はそういう人だ。例え彼女が完全に死徒と化しても、信じて、正気を取り戻させようとするだろう。実際、それは当たっていたわけだが。

 代行者は教会に「国外へ取り逃がした」と報告した。彼女は嘘をついたわけではない。国外へ逃げてしまったのは確実であり、また自分が駆けつけたときにはすでにいなかった。ただ捕獲する努力をしなかっただけで。彼女は偽証したわけではない。

 そのシエルの報告を聞いて教会は直ちに討伐隊を組織した。あらゆる国の埋葬機関駐在信徒に指令を下した。

 シオンもまた、そのことは諒解している。予測の中にあったからだ。日本を辞しても、彼女には帰る場所などどこにもないことは初めから分かっていたことだった。しかし、彼女には一つだけ、やっておかねばならないことがあった。

「……すでに剥奪されているだろうが、このアトラシアを返さなければ」

 アトラスの代表者たる称号、アトラシアを、彼女はアトラス院に戻って学長に返さなくてはならない。それが、今まで仮にも生涯の全てを過ごしたアトラス院への最低限の仁義だと彼女は信じた。

 一路、アフリカに向かう。空港を使うのははばかられた。教会の手の者が張っている可能性があるからだ。船や徒歩で、彼女は二ヶ月を経てアフリカへ辿り着いた。すでにその時点で満身創痍となっていたが、教会の追っ手から逃げながらの逃避行は彼女にとって、しかし苦痛ではなかった。

 これで彼女は晴れて何のしがらみも煩わしさを感じることなく研究に専念できるのである。今は遠い、日本にいる友との約束を果たすことに専念できるのだ。彼は言った。途中で諦めたらそれこそ軽蔑すると。嫌われるのは構わないが、軽蔑されるのは耐えられない。

 だから研究する。吸血鬼から受けた血をどう弾くか。真祖は言った。吸血鬼化を止める術は無いのだと。だから追い続ける。無限に生を謳歌する真祖も、世界が終わればその生を終わるのと同様、この世に絶対はないのだと分かったから。シオンはアトラスを目指した。

 アトラス院は静まっていた。教会からシオン・エルトナムの捕縛命令が下され、学長を始め多くの院生と教官がシオンの死を信じた、が。

「無防備ですね、教官」

「……!」

 金髪を有したその教官は、それが初め誰だか分からなかった。だがその白皙の美貌と蒼みがかった頭髪には見覚えがある。

「シオン・エルトナム・アトラシア!?」

「その様子ではまだアトラシアの称号は剥奪されたわけではないようですね」

静かに重々しい黒の銃口を向けてシオンは撃鉄を起こした。引き金に指をかけて教官を脅す。

「通しなさい。私は学長に用がある。あなたの相手をしている暇はありません」

その言葉に教官は素直に従った。錬金術師の端くれである彼もまた、その弾道を予測したがかわし切れないと結論付けたのだ。脇に退いて、彼女を睨みつける。通り過ぎてから、シオンは教官に向いた。

「助けを呼びたくばどうぞ。学長がこの世から消えてもいいのでしたら」

戦慄を覚える間もなく、少女は駆け出して行った。教官は数秒の間、その場に立ち尽くすこととなった。

 石畳を駆ける。しばらくして大ホールに出て、ぽっかりと開いた口の中を行き、学長室のある棟へと急ぐ。

アトラス院は三つの構造からなっている。

 一つは院生の寝泊りする宿舎。一つは研究室や講義室などのある実験修練棟。もう一つは教官の宿舎や教官室、学長室のある教官棟。シオンが向かっているのはこの教官棟だ。ここまで辿り着けばあとはアトラシアの称号を学長に突っ返すだけだ。

 大理石の混じった石造りの階段を昇り、教官棟のホールに出る。そこには教官が数人と事務の老人がいたが、彼らの目をはばかることなくすり抜けて行った。背中越しに「シオン・エルトナム」だとか「蒼い髪の小娘」だとかが聞こえたが、気にせずにシオンは走った。やはり行く先々ですれ違う人々に怪訝と驚愕を以って迎えられた。それらを無視して走り、やがて教官室に着いた。

 学長への面会は四学部教官長の総意で決まる。魔術、化学、数学、教育の四学部の教官長は滅多に講義をしない。彼らは普段教官室か自分の研究室にいて院生たちの成績がどうだとか、素行がどうだとか、講義内容の編成や実力試験の作成、または自分の研究によって時間を費やしている。シオン・エルトナム・アトラシアでさえ彼らの講義を受けた記憶はない。現在の教官長はそのほとんどが自分の研究に没頭しているからだ。

 シオンが教官室へ来たのは単なる筋道だったからに他ならない。彼らの研究室へ行って万が一許可を受けたとしても、教官室でなければ鍵を受け取ることができない。学長室は壁を二枚隔てたところにある。一つ目は面会する者が許可を得たかどうかを確認するために鍵を掛けたドアがあり、それを開けて晴れて学長室へ続く扉を開けることができるのだ。この扉に鍵は元々なく、壁と壁を挟んだ空間は待合室のような構造になっている。

 学長室へ入るための鍵は金庫に保管されている。無論、学長自身も鍵を所持しているが、院生や教官が面会するときは金庫に保管されているほうを使う。その金庫を開けるためにはまた鍵を開けなければならず、それらは教官長たちの持つ四つの鍵を同時に回さなければならないため、どちらにしろ彼らを呼び寄せなければならないのだ。

「失礼します」

 シオンは教官室へ堂々と入室した。教官室、というよりはそれ自体が講堂のようになっていて、入室者は講堂の真ん中に出ることになる。教官室への扉は存在しない。代わりに出口の左右両側に事務官が一人ずつ座っていて、ここでまず入室の許可を得なくてはならない。

 シオンは帽子を取って右側の事務官に許可を求めた。

「アトラス院教官待遇シオン・エルトナム・アトラシア。只今戻ったことを報告すると共に学長への目通りをお願いしに来ました」

よく通るが無愛想が拭いきれない独特の声が教官室に通った。おおよその教官の目を引いた少女は帽子を被り直してそれらに一瞥をくれた。

入室を司る事務官が固まっていると、教官の一人が彼女に近づいて乾いた笑顔をよこした。赤毛の男は、確かクロフォードとか言った名前だと記憶している。

「シオン・エルトナム・アトラシア。よく帰ってきた。……いやよく帰ってこられた。君についてよからぬ噂が流れていたのでね」

「……噂とは?」

「君が埋葬機関に手配され、討伐されたと。他の魔術協会からも圧力がかかっているそうだ。実際我々の元にも使者が訪れてね、もし帰ってくるようであれば一報入れたし、と」

使者というのは協会か教会か。恐らくその両方だろう。

「教官。教官ともあろう方が噂をお信じになったとでも?」

「いやいや、元々予測の範疇だ。君が三年前に吸血鬼になったというのはね」

 前から思っていたことだが、この男は本当に人の神経を逆撫でするのがうまいと思う。この男にも講義を受けたことはあるのだが、そのときからそういった言動が見られた。もっとも、シオンにとってはどうでもよいことなので気にしなかったが。大体、吸血鬼になったという表現をする時点でこの男は終わっている。吸血鬼に「なって」しまったのなら、今頃この男を八つ裂きにしているか肉片一つ残さずにしていることだろう。

 教官室の空気が変わっていた。誰もが自分を蔑むような、不愉快なものを見る視線。やはりエルトナムの家系は呪われているのだ。彼女の先祖がそうであったように、彼女自身もまた……。

 そう見ているのは明らかである。どうでもよいことだ、とシオンは思う。何しろ、家系が呪われていようが、彼らには関係のないことだ。彼らに何ら害をなしたわけではないのに、何を思い悩む必要があるのか。吸血鬼に「なって」しまったのなら話は別だが、しかし今はそうではない。今のシオンの言動と行動にそれは充分現れている。

「かの騎士団でさえ全滅したというのに、君だけは生き残った。予測はつくと思うがね」

「予測をつけるのは勝手ですが、その解には誤りがあります。……いえ、どうでもよいことでしたね。とにかく学長へ面会を求めます」

クロフォードは教官室を流し目で見遣ってから訊いた。

「四学部教官長の許可はいただいてるのか」

「ここにおられますか」

かぶりを振る彼を見てから目を伏せて彼女は言う。

「なら呼び寄せなさい。私はアトラシア。いつでも学長に面会できる権利がある」

 明らかに一瞬鼻白んで蒼い髪の小娘を睨んだが、しかし彼女の言っていることは事実だ。学長からも、面会者は拒んではならぬと言いつけられている。

 しかしそう簡単に面会させていいものか。彼女は教会から追われる身、何をするか分からないではないか。学長を人質にとって何らかの要求をしてこないとも限らない。彼は予測した。あらゆる未来を統計して可能性の最も高いものを阻止しようとすることにした。

 彼はシオンが目を伏せてたたずんでいるのを見て、他の教官に目配せをした。その意図を正確に読み取った四人が一斉に拳銃を手に取ったが、しかしシオンはすでにそれらの行動を見切っていた。左腕を振るってエーテライトを一人の脳神経と直結させた。

「あまりマイナスな行動を取らないように。あなたの作戦は成功すれば鮮やかなものだが、失敗すればどうなるか分かったものじゃない。下らないことはしないで、早々に四学部教官長を呼び寄せなさい。警告で終わるのはここまでです」

 言い捨ててから、シオンは事務官を向いた。慌てて走っていく事務官を見遣って、クロフォードはシオンを睨んだ。何と度し難い小娘か。こちらの予測など手に取るように分かると言うのか。可愛げのないエルトナムの没落貴族め。彼はさんざん心で彼女を罵って、しかしそうすることしかできない無能さを呪いはしなかった。その辺りのメンタリティは、シオンの最も冷笑するべきところであったのだ。

そうしてなす術をなくした教官たちは、事務官が四学部教官長を探し当てて教官室に連れてくる間の一時間余りをその場で立ち尽くして過ごすこととなった。

 ……やがて事務官と共に教官室を訪れた四学部教官長たちは、さして驚く様子もなく事態を受け入れた。何しろ、彼女の要求に何ら理不尽な点も存在しない。目に余るのはこの事態を収拾し得ない教官たちで、クロフォードは眉間に皺を寄せて俯いてしまっている。さすがに、そろそろ自分の無能さに恥じ入ってもいいだろう。

四学部教官たちは渋い面で同時に金庫の鍵を開けた。大の大人がようやく一人で持てるほどの重量と大きさを有したその金庫は、荘厳でもなければ華美でもない。ただの黒い、銀の紋様を施しただけの実用的なものだった。もっとも、学長室の鍵を保管するためだけに存在する金庫である。過度な装丁は不要であるというのが代々からの共通認識である。

四学部教官長のリーダーである教育学部教官長のフォルカーと言った白髪の老人は、そのたくわえられた顎鬚をしゃくって言った。

「存分に面会してくるがいい、アトラシア。お前さんにアトラスの加護があらんことを」

 鍵を手渡されてシオンは毒気を抜かれた気がした。この老人には未来が視えているのだろうか。未来を計算した結果、これから起こりうるシオン・エルトナムの行動が見えたのか。しかし、これからシオンの取る行動は普通の錬金術師では予測しえまい。一体どこの誰が、殺されるかもしれない危険を冒してすでに剥奪されたかもしれない称号を返すためだけに古巣へ帰るというのか。

 もしかするとこの老人、とんでもない超越者なのかもしれない。アトラスの錬金術を極限まで究めれば、予測不能の事態などは起こりえないのかもしれなかったが、しかしそれは買い被りに過ぎた。彼は、コルネリアス・フォルカー・アンツは今年六七歳を過ぎた。ただその歴史と善良さだけで四学部教官長の座を取った男で、彼の同期はすでにその上を行って独立していたり隠居したりしていたのだから、これはアトラスの歴史の中でも最も出世が遅いと専らの評判だった。シオンの行動を看破して見せたのも彼の善良さと年の功によるものだと知る術を、彼女はこの先ついに得られなかった。

 シオンはフォルカーに頭を垂れて一礼し、次いで教官室を見渡してからまた一礼して退室していった。

「よろしいのですか、アンツ。彼女が何をしようとしているのかお分かりですか……!?」

「分かっている。分かっているからこそ行かせたのよ。あの娘が学長を害するようなことは決してない。もしあるとしたら、それはとんでもない悪魔が突然彼女に囁いたときだろうて」

 その言葉にクロフォードは絶句した。あるいは「もうろく爺さんめ」とでも呟いたかもしれないがもうすでに遅い。シオンは文字通り疾走してあっという間に学長室の前まで辿り着いたのである。

 シオンは呼吸を整えた。先ほど手渡された鍵は、何の突起も窪みもない円柱形をしていたが、ある一点を押すと突起が生えてくる仕掛けになっている。万が一この鍵が奪われたときのために、この仕掛けを知らないのならば早々に捨てたであろう細工だった。何の変哲もない鋼鉄製でできた扉の鍵穴にすっぽりと収まり、右に回転させると開錠された証拠の音がくぐもった声で響き、ドアノブを回すと重々しく鋼鉄製の扉は開いた。

 その先は待合室。黒いソファが学長室へ繋がるドアの左右に二つ配置されていた。左右の壁面にはランプしかなく、それでこの部屋に置いてあるものは全てだった。

 シオンは呼吸を整えた。冷然として学長と会わなければ面子も何もあったものじゃない。正確に言えばそんなものはどうでもよかった。彼女の矜持が許さないのだ。別段悪事を働こうとしているわけではないのに何を慌てる必要があろうか。呼吸を整えて表情を引き締め、拳銃は仕舞っておいてシオンはドアをノックした。待合室の乾いた空気に響いたそれは一瞬にして静寂に飲み込まれていく。ほどなくして中から入室を許可する声が聞かれた。ドアノブを回して身を滑らせる。

 学長と学長室は何の感動性もなく来訪者を招き入れた。左手には本棚、右手には学長の着ていたらしいコートが掛かっており、これから外出するのだということが見て取れた。観葉植物の類は一切置いておらず、おおよそ娯楽というものはこの部屋には存在していない。元々必要のない場所ではあるが、人間性を感じられない、とも取れるのである。

 学長は齢を七〇としていた。その枯れた姿は死を予感させるが、しかし体は健康そのもので杖を必要としない歩調は確かに威厳を感じさせる。面白くもなさそうに書類に目を通していた学長は、やはり面白くなさそうに蒼い髪の少女を見遣った。数秒そのまま見て、やがて枯れた声をシオンに向けた。

「それで?用向きは何だアトラシア」

「は、シオン・エルトナム・アトラシア只今アトラスに戻りました」

 うむ、と頷いて書類を机に置いた。

 学長であるガウ・イェーガー・アトラスは机の上で手を組んでその先を促した。元々それを言うためだけに帰還したとは予測していない。彼女には彼女なりの、彼女らしい言い分があってこの地にわざわざ舞い戻ったのだろう。

「それで?」

「はい。イェーガー学長、アトラシアをお返しに来たのです」

イェーガーの眉が微かに動いたのをシオンは見逃さなかった。さすがにそこまでは予測していなかったようだ。

唯一の愉しみにしている紅茶を注いでイェーガーは一口飲んだ。うむ、美味く淹れてある。二口目を飲んでカップを受け皿に置くと臆することもない少女を見遣った。

特に変わった様子はない。吸血鬼になってしまったと聞いていたが変化は見られない。気になるとすれば彼女の顔色が優れないことと学院に戻ってきた、その辺りの心情とやらだ。彼は順序だてて訊くことにした。

「顔色が優れぬな。睡眠はとっているのか」

「は……何分にも急を要する用件でしたので、睡眠は十分とは言えません」

「それは錬金術師らしからぬ行いよな。自己管理は最も重要な事柄ぞ」

「面目ございません。以後気を付けます」

 素直に謝してシオンは思った。このやり取りに意味はあるのだろうか。否、意味などない。ただの、学長と院生の、または祖父と孫との他愛もない会話だ。白髪の老人は笑みこそ浮かべはしなかったが、並みの人間ならばきっとそうしていたであろう。イェーガーは緑に輝く瞳を少女に向けた。さして、気を引き締めた様子もない。

「……それで、アトラシアを返すとはどういう意味かね」

「……言葉通りに取っていただいて結構です。私にはいささか荷が勝ちすぎると思いまして」

「思ってもいないことを言うということは、どれほど追い詰められているのかね?それとも余裕の表れか」

「どちらでもありません。私は筋を通したまでのことです。戴いた称号はやはり戴いた本人に返すのが筋でしょう」

「筋か。自らの生命の危険を冒してまで通す筋は、この世界にはないと思うていたがな」

「そうかもしれません。ですが錬金術師にとって生命は予測できる範囲の未来でしかありません。自らの生命からこぼれるものは予測できない。生きる算段がなければ危険は冒しません」

 もっともだ、と頷いてイェーガーは紅茶に口をつけた。

「それで、アトラスを去ってどうするね。教会はまだお前を追っているだろう」

「それはご心配なく。それも算段はついています」

「しかし、な。明日の凶事を予測しえても、今晩の夕食が何なのか予測できないでは情けないではないか?」

 シオンは閉口した。そう言えばこの二日間ほどはろくに腹を満たしていない。学長の言うことは全くその通りで、逃げることについては心配ないが食事という一点はどうしようかと困惑しているのだ。その辺りを察したのか、イェーガーの指摘は正鵠を射ていた。顔色が優れないという点も恐らくはそこから来ているのだろう。栄養の摂取を管理しなければどこかで栄養失調なり飢えなりでのたれ死ぬこともありうる。

 教会の埋葬機関の追跡がそれだけ苛烈だということも含まれている。この世に存在している限り、彼らの猛追は彼女を安眠とは遥かな隔たりを持たせてくれることだろう。

「……まあよい。もう二度と会うこともあるまい。せいぜい息災でいることだなエルトナム」

「学長も。疎まれるくらいには生きてください」

そう言ってシオンは学長室を辞した。孫娘ほどの年齢の少女の後姿を見遣って、紅茶を飲み干す。イェーガーは少しの間何ごとか思いを至らしていたが、思えばそれが彼の初めてした感傷と言えたのかもしれない。やがて書類を手にとって面白くもなさそうに目を通し始めた。

……清々しい気分にはなれないもので、やっと肩の荷が幾分かは降りた、という安堵感が彼女の心を横切った。それを無理やりに押しやってシオンは背中に隠していた銃を手にとった。これからのことは予測できている。恐らくはクロフォードあたりが愚策を弄していることだろう。それらを今度は実力で排除していかなければならない。

シオンは息をついて待合室の扉を開けた。そこに待機していた教官と院生を銃弾の牽制で押しのけると、一挙に駆け抜けていく。赤毛の教官が声を上げて何ごとか命令していたが、敵が飛び道具を所持していると知ってしまった教官と院生は逃げ腰に彼女を追い始めた。

……彼女の逃亡が再開したのである。