二、流血行程
降り注ぐ雨が体をひどく冷やしていた。白皙の肌はいつも以上に白く、蒼白と言ってもよい。指先まで温かみというものを失ってしまった少女は身じろぎもしない。手に入れた外套もすでに穴が空いてしまっていて意味を成さなかったが無いよりは幾分かまし、というものだった。
辺りは真っ暗なはずなのに雨ははっきりと見えるようだ。透明なはずの雨水は、しかし彼女には紅く見えている。
どくん、と心臓が鳴った。吸血衝動を精神力で抑えつけ、自我を保つ。根負けしては終わりだ。自分が逃げている意味も、理由も、目的も、全てが水泡に帰してしまう。あの忌々しいタタリの残照が自分を血生臭い世界へと誘うのを、これまで幾度打ち破ってきたか。いや、完全に打ち破っているわけではない。ただ抑え込んでいるだけ。意識の隅に追いやって普段は相手にしていないだけだ。衝動が自らの存在を主張して彼女の意識を侵していくときにのみ彼女は初めて未だ残るタタリの呪いに抗うのだ。
幸い、今回は潔く引き下がってくれた。血走った眼は平静を取り戻し、乱れた呼吸を整えて懐中時計を取り出す。
時刻は午前一時二〇分を過ぎた辺り。夜明けまであと四時間といったところか。
逃げて逃げて東の地に辿り着いた。教会の差し向けた追手の執着心は凄まじいものだった。
あの日。タタリを阻止したあの日から数ヶ月が経っていたが、タタリの席、死徒二十七祖であるワラキアの席に押し上げられてしまったシオン・エルトナムは当然教会側から執拗な追撃を受けていた。教会だけでなく、アトラス院からも圧力がかかってシオンは帰る場所を失った。いや、元から帰る場所などこの世のどこにも存在していなかったから、そんなことは些細なことだ。しかし、それによって吸血鬼化の治療法を見つけるということがおろそかになっている。シオンにとってそれは解決するべき命題だった。
あの日に知り合った少年、遠野志貴との約束が果たされない。他人との約束ならば守る必要性を感じなかったかもしれない。しかしそれが友人とのものであれば話は別だ。是が非でも守らなくてはならないものになる。それは友情と呼ぶにはあまりに滑稽であるかもしれないが、吸血鬼化の治療法を探し続けている限り自分はシオン・エルトナムであり続けられる。遠野志貴を知己と認めてしまったシオン・エルトナムという存在を、彼は確認することができないかもしれないが、しかし確かに存在している。それだけでいいのだ。この先、シオンは遠野志貴と逢うことは二度とないと少なくとも彼女はそう思っていた。逢えたら吸血衝動が高まるかもしれないが、どんなに心に活力をもたらしてくれることだろうか。シオンという少女の心には確かに遠野志貴が存在していて、いつも彼との約束を守ろうという存在理由を示し続けてくれる。だから、シオンはシオンでいられているのだ。
彼はどうしているだろう。いつものあのぼんやりとした眼で柔らかい笑顔を誰かに向けているのだろうか。
第二、第三、第四、第五……と、彼女の思考の引き出したちが咆哮を上げる。
『思えば彼の行動原理は不可解だった。どうしてあそこまで人のためになれるのか……』
『教会の埋葬機関は今どの辺りにいるだろうか。香港まで辿り着いているのだろうか……』
『予測する。これから埋葬機関がどこに現れて、どうアプローチしてくるのか』
『二七八通りの逃亡ルートの中から割り出せる精度の高いものは四通り』
『そう言えば今朝の夜明けから何も口にしていない。これでは思考能力の低下が見られるのは無理もないが、しかし予測の範疇である』
……一気に思考を進めてからシオンはそれらを遮断した。優先すべきはこれからの逃亡ルート。現在の埋葬機関の予想位置からここまでの時間的余裕はせいぜい一時間から一時間半。それまでにどう逃げるか予測して体力を回復させておき、備えなくてはならない。過去の感傷に浸っている場合ではないのだ。
「……それに、元々私にはそんな趣味は無かったはずだ」
自虐的に嘲笑って少女は眼を閉じた。それから三〇分の間、彼女はやはり身じろぎもせずに仮眠をとったのである。
太陽が真上に来て、シオン・エルトナムは再び逃亡を開始した。多少疲れを癒してから歩き始めると、体が軋むようだった。この何週間か、きちんとしたベッドで寝た記憶がない。ほとんどが野宿か廃屋に侵入しての睡眠であった。
「東というのはどうしてこう……」
暑いのか、と無意識に呟いていた言葉は本心だった。思えばあの日も暑かった。日中はこの身が焼けるほどの日差しと、肌に張り付く湿気が不快だった。この辺りの夏は高温多湿だというが、よくこんなところに人が住めるものだと思う。
日本に滞在していたのはほんの数日であったが、しかし日本の夏はまるでマグマのようだということは脳裏に焼きついた。日本とさほど変わらない気候の中国であっても例外ではないのだろう。
人込みにまぎれて歩を進める。教会の埋葬機関の人間は人目につくことを嫌う。それは異端退治の専門家としては当然のことで、まず繁華街で襲っては来るまい。
「……海を渡るか」
ふと、そんなことを思い立った。確かに追撃を逃れるには海を渡っていくのは効果的だが、しかし海を渡るということは日本に行くということだ。香港ならば貨物船にでも忍び込めば日本へ行くのは容易だろう。しかし、何故海を渡ろうと思ったのか。
一つには空港が追手によって張られているかもしれないという懸念。もう一つには大陸を回っていてもいたちごっこということ。
もう一つは、遠野志貴。彼の助力が得られないかということ。正確には遠野家のバックアップである。志貴という知己がいることによって、遠野家当主である遠野秋葉との間を取り持ってくれるのではないかというのが一つの希望的観測である。だが、これにはシオンもいささか良心が痛む。志貴を都合よく利用しているとも取れるからである。
少なくとも遠野の人々はそのようなことを思うこともないだろうが、代行者や真祖と遭遇してしまった場合「志貴を利用して匿ってもらうなんて」と、彼女らにそう取られる可能性は大きい。また、代行者がいるということはシオン討伐命令も当然下されているだろう。もし遭遇してしまった場合戦闘になるのは必定で、しかもシオンに勝ち目はほとんど無いと言う状況を打破してくれるのは彼だ。彼が間に入って仲裁なりしてくれれば、無駄な時間も体力も使わずに済む。そこまで考えての渡海だが、果たしてどう転ぶのか。
志貴はきっと拒むまい。何も責めずに、訊かずに受け入れてくれるだろう。彼はそういう男だ。シオンとしては、その人柄を信じて、頼って日本に行くということで救いとしたかった。
「日本……」
その響きは彼女にとって特別なものだった。