V

 

 

未だネオンが咲き誇る繁華街を抜けて三人は路地裏に足を運んだ。何故ここに来たかというと、この路地裏には好からぬものが集まってくるという。殺人鬼もこの場所を好んでねぐらにすることもありえると、そうシエルが断言しての行動だった。

空には欠けた月が三人を見下ろしている。湿った空気と散漫な光を放つ星々を供としているように、月はその存在を示していた。

月の綺麗な夜だ。志貴は見上げて思った。こんな夜には殺人など起ころうはずもない、と信じたくなるのはただの感傷だろう。人の意志は自然に左右されない。同時に自然の意志も人に左右されないのである。暖かな陽気の爽やかな風の下、殺人は起こるし、人は死んでゆく。これから殺人鬼を殺しにいくというのに志貴の心はアルクェイド、シエルに言わせれば緩慢だと言えたろう。

その志貴も、路地裏に到達する頃にはその感傷も無くなっていた。感傷などを感じている暇もなく、路地裏は血の臭いに満ちていた。

アルクェイドは段々と瞳の色が変化していき、シエルは氷のような眼で辺りを睨んでいる。

 志貴は喉に張り付く血の臭いを振り払うように大きく深呼吸した。異常な空気を体に浸透させて一気に吐き出し、血に対して少しばかりの耐性をつけた。これで気分が悪くなることはなくなったが、不愉快なのは捨て去れない。かつて人間の中に脈々と流れていたものが散乱している様は見たくもなかった。

「……酷いわね」

アルクェイドが思わず呟いてしまうほどのそれは、しかし血ばかりではなかった。

指、足、腕、首、上半身に下半身、腸、肝臓、心臓、脳、眼球、顎部、手、耳。

あらゆる人体の部位を無造作にぶちまけたような光景は不快以外の何物でもなかった。アルクェイドが酷い、と言ったのはその趣味の悪さであり、決して残酷さではない。

殺人嗜好者はその殺し方については無頓着にしているわけではない。何らかの統制と理念を有しているため、このような不快感は与えないものだ。もっとも、その不快感こそが、覚えた者を異常と示すものではあったが。

志貴は口を押さえた。吸血鬼との戦いで死体にはいささか慣れたものだったが、ここまで無節操にやられると胃液が逆流してくるのを抑えるのに一苦労するものだ。何とか寸でのところで嘔吐するのを阻止して改めて散乱した「死体」を見た。

 一体何人殺されたのか見当もつかないが、彼らは故あって殺されたのだろうか。殺人鬼の悦楽のために無為に殺されたのではないのか。だとしたら、何と哀れな人生であったろう。殺人鬼に殺されるためにそこに存在していたのと同義ではないか。これまで殺害された者もそうだ。一体どれほどの無念さと悔しさを感じ、彼らを知る者は一体どれほどの涙と呪詛を生み出すことだろう。

 志貴は二人の表情を見た。アルクェイドは無節操さを嘲笑い、または怒り、シエルは憮然として気を探っている。

 どちらの眼も、死人に対してではなく殺人鬼を追っていた。皮肉なことだが殺人鬼を追う者にとっては死人のことよりも殺人鬼のほうに、より興味を注がれるのだ。殺された者を悲しみ、慈しんで葬るのは彼らの家族に任せるとして、殺人鬼をどうにかするのは他ならぬ自分たちだと、信じて疑わない。今回の犯人であろう念動力者を殺すために、今は全神経を集中させなければならないのだ。

「気が付いてる?シエル」

不意にアルクェイドが言った。シエルはブーツの踵を鳴らして死体の一部を撫でた。

「……残留思念がはっきりある。念動力者が殺してからまだ何時間も経っていない」

残留思念、とは文字通り生き物の意志がその場に残留することを指す。強い意志が発生するとその意志が残ってしまい、それが残留思念と称される。何か未練を残した者がその死体に思念を残しておく例も少なくなく、しばしば魂と混濁されるが別物なのだ。残留思念は比較的長く残るものだが感覚としては非常に弱い。が、直後であると勘のいい者ならはっきりと正確に感じ取ることができる。

今回の場合、残留した思念は「曲がれ」「飛べ」「千切れろ」「潰せ」といったものだったが、残念ながらシエルにはそこまでしか分からなかった。超能力者であったなら、もっと精確に感じ取っていたであろう。例えばどのような心象風景を思い描いて具現化させたか。どのような意志が、他に介在していたか。

 シエルは舌打ちをした。このような行為を、代行者たる自分のいる街で許したとは。しかも相手は吸血鬼などではなく、自分と同じ人間だ。人を人とも思わぬ振る舞い。それは激しく自分が嫌悪する吸血鬼と同等のものではないか。

「……これで殺さなければならなくなりましたね。早急に、完全に」

「当たり前よ。こんな稚拙なこと、許されていいはずないわ」

「……何か怒る点がずれてる気がするけど、でも確かに許せないな。二人がやらないと言っても、俺が殺す」

二人は志貴を見た。この少年が殺すと口にした。どうやら本気になってくれたようだ。殺す、という発音の何と暗く、凍てつく響きか。アルクェイドやシエルでもこのように完全な死を感じさせる言葉を発するのは不可能であった。もはや言葉でさえも死の衣を帯びている。死を視切って断つ、志貴であればこその響きだったであろう。

 志貴は月を見上げた。丁度雲に翳って光が失われるときだった。

「ああ、綺麗な月だ。でも今は見えないね」

三人は後ろを振り返った。志貴は不意を突かれた風だったが、真祖の姫と代行者は別段驚くでもなくゆっくりと顔を向けた。

「元気みたいね念動力者。また人を殺して、調子いいみたいじゃない」

「そうかな。まだ制御は完全じゃなかったがね、さっきそれらを殺して何とかコツを掴んだところだ」

アルクェイドは牽制として肌をつんざくような殺気を放ったが、男の声は何ら臆した様子もなく、むしろ精悍さを感じさせるものだった。それがいたく気に食わなかったらしく、アルクェイドは瞳の色を金色にした。しかしそれでも男は変わった様子はない。

 茶色い革のジャケットの下に黒のノースリーブ、色の褪せたジーンズ、黒のブーツ。装飾品は一切なく、茶色の頭髪は固めてあるのか、逆立っている。背丈は一八〇センチを越えるくらい、顔の作りは日本人のようだ。

 そう男を観察してからシエルが一歩前に出た。

「あなたがこの状態を作り上げた人物ですか」

「いかにも。代行者」

 シエルの眉間がぴくりと動いたのを、志貴は見逃さなかった。

「真祖の姫君にあってはご機嫌麗しく……魔眼使いを引き連れてのご足労は痛み入るね」

今度はアルクェイドと志貴の表情が変化した。アルクェイドはそれこそ一瞬のものだったが、志貴は少なからぬ驚きと、脅威を感じていた。

自分が魔眼を有していると、誰に聞いた?どこで知った?傍目からは到底判別がつかないものを、どうやって看破したというのだ。それとも、異能者としての勘がそう発言させたでも言うのか。

「何を驚いている?真祖を殺したのは有名だよ」

どこにその名を轟かせているというのか。

「それで。ここに来たのは俺を捕えるため……ではなさそうだな」

「当然。あなたを殺しに来たのよ」

「そうか。そうだな。そうでなくてはいけないな」

訳の分からない三段活用をして、男は笑った。志貴は静かにポケットに手を入れる。

「七夜。わざわざ君が出てくるとは、どうやら超能力者は相容れないようだな」

七夜。聞き慣れない、不愉快な言葉を聞いて志貴はナイフの刃を男に向けた。男は笑って、その切っ先を見ていた。

 この男は七夜という名前も知っている。それだけで志貴の心は既に静かな殺気で満たされていた。本気で殺すときの、志貴の心情である。他者にそれと感じさせないほどの静かさと冷徹さを持っていたが、しかし確かな死への恐怖を与える、絶望的なまでの殺気だった。

もちろん七夜という名前は世間で広く使われるものではないし、むしろ七夜とは唯一つの一族を指すものであった。魔との混血を屠る、人外の敵。化け物を本能的に感じ取り、瞬時に殺すことを身につけた人であって人でないモノ。志貴はその七夜の血統を受け継ぐ。

だが、それは志貴の与り知らないことだ。自分の幼少期に何があったのかは分からないが、しかし吸血鬼を討伐したのも、今この得体の知れない念動力者に対しているのも唯一つの存在である「遠野志貴」としての自分だ。決して七夜だとか過去の遺物の名を借りて戦っているわけではない。あくまでただ自分として。この世でたった一人である「志貴」として殺人鬼を殺す。それだけは誰にも見紛うことない自分であると言える。ただ少し人より死に近く、殺すことが巧いだけの少年だ。

 男はジャケットのポケットから煙草を取り出して火を点けた。最初の煙を吸った後、大きく中空に吐き出す。

「最後の煙草は美味いかしら?」

「そうだな、君らへの手向けとしては悪くないんじゃないかな」

「強がり言って」

そう言って真祖は魔眼を示した。真っ直ぐに男を直視するその金色の瞳は並の人間ならば刹那であっても耐えられまい。だが、男は意に介さずに煙草を吸い続ける。

「(おかしい、受け流されてる……?この男、何者……!?)」

思うのと、体が動くのは同時だった。最初の跳躍が既に彼の顔に自分の腕が届く、丁度間合いまで接近していた。アルクェイドは確信して研ぎ澄まされた獣のような爪を男に突き立てる。だが。

 

 ばくん。

 

 アルクェイドの直下のコンクリートが真っ二つに割れ、迫ってくる石塊に挟まれる形となったアルクェイドは文字通り必殺の一撃を断念せざるを得なかった。その、傍目からは華奢な体を守るために地面をも引き裂く腕を大きく広げ、コンクリートの圧力を殺すしかなかった。思惑通りにコンクリートは砕けて体には傷一つ付かなかった、が。それはコンクリートによるダメージだけだ。大きく腕を広げた、その隙を男が逃すはずもなく、念という鉄球でアルクェイドを叩き飛ばした。志貴がそれを受け止めようと走らんとするのをシエルは止めた。行っても、志貴の全身の骨が砕けるだけだ。

アルクェイドは路地裏の壁面に叩きつけられて、その衝撃で壁面は波打つように亀裂を生じさせた。隣にいたオブジェの死体を吹き飛ばしながら。

 念動力の衝撃から咄嗟に体を庇った左腕が、もう使い物にならない。よく千切れずにいたものだ。骨は砕け散って、微かに残った肩の骨が肉を裂いて浮き彫りになっている。

 

 何て、無様。

 

 アルクェイドは吐血しながら憤った。自分の何と稚拙なことか。何と無様なことか。何と愚かなことか。何と甘いことか。たかだか魔眼が効かなかったくらいで動揺し、先手を打たされるとは。あの飄々とした態度はフェイク。こちらの激昂を誘うための、心理的罠。我慢しきれなくなったところを狙う、兵法では常識のことではないか。こちらも戦闘を、殺しを専売特許としているのではなかったか。

それがこの体たらく。許されていいはずがなかった。

どんどん己に腹が立って血走っていく瞳を血鏡で見ながら、アルクェイドはなおも自制をしようと試みた。ここで切れては殺される。間違いなく今度は腕とは言わずに首を狙ってくるだろう。アルクェイドは自制した。

「愚かなことを……念動力者に先手を打ってどうするんですか。持久戦に持ち込むと言ったのは自分でしょうに」

吐き捨てて、代行者は黒鍵を三対ずつ、両手に備えた。鉄甲作用と火葬式典を合わせた、対異端者用の決戦兵器。概念武装と呼ばれる、悪魔退治の究極の形。化け物はもちろん、人間であっても魂をもぎ取られる白銀の剣は、シエルの十八番であった。

「黒鍵か。どう調律してあるのか知らないが、いい音色なのだろうな?」

「そうですね。少なくとも、葬送曲は奏でられますよ」

左腕を振るった。三本の剣が影を残して男に向かって牙を剥いた。その速度はとても常人が反応しうるものではなかったが、予測して男は身をかわした。黒鍵は男の後ろの壁に突き刺さり、炎と燃えて式典の紙片が舞った。それらの紙片も燃え尽きてしまうと、シエルは舌打ちしてもう一対の黒鍵も放った。今度は地面であったコンクリートを念で剥がし、障壁としてそれらを阻んだ。

シエルは違和感を覚えた。随分と回りくどいことをするものだ。念動力ならば黒鍵など投擲している最中に折ることもできるはずだ。何故コンクリートで阻むなどといった面倒なことをするのか。もっとも、それをやられればなす術もなくなるのはこちらだが。

それにしても失敗した。この路地裏では身を隠すことができない。彼の視界に入ってしまうことになる。ということは、念動力を直接受けてしまうということだ。そもそもこの路地裏に来たものの、本当に現れるとは思っていなかったのだ。繁華街で起きた殺人はなかったし、この路地裏に現れる理由がない。魔が集まりやすいとは言え、彼は人間だ。路地裏の魔に引かれることは少ないのではないか。そう考えたからこそ遠野志貴を連れてここに来たのだ。

 男は音も立てずに笑った。咥えた煙草を捨ててシエルの足元によこすと、アルクェイドを向いた。

「美人から視線を受けるのは悪い気分ではないな」

軽口を叩く余裕が、現時点での勝者が誰なのか示していた。

白い吸血鬼は男に苛烈な眼差しを向けている。己の愚かさをさんざん心の中で罵った末、その借りは流血で返そうと決断を下した。簡単に殺せるとは思わないが、簡単に殺そうとも思わないアルクェイドだった。

「真祖。俺はただの人間だがね、今のあなたになら殺される気はしない。執行者としてなら、俺は一分と保たなかったろうがね」

「……」

「かつてのような殺気が、あなたには感じられない。一体どこで牙を抜かれた」

「……」

「……まあいいか。それほど興味のあることでもない。今のあなたは無視をしても構わないのだし。今はそちらの代行者が俺の敵だな」

静かにたたずんでいたシエルに目を向けて、男はまた煙草を一本取り出した。

このとき、シエルはその頭の中でこの男とどう渡り合うか、それだけを思考していた。身を隠すものがないこの路地裏で敵の念動力を無効化、あるいは半減させる手立てはないか。アルクェイドは左腕を無くし戦闘は精神的に続行不可能という状況で、となるとあとは志貴による奇襲しかない。

だが、身を隠す場所がないということは存在を知られるということ。存在を知られてはそもそも念動力の餌食になるし、奇襲も起こせようはずがない。

自分が肉薄し、接近戦を仕掛ける間に志貴も接近し、死の線を断つ。という作戦も考えられるが、そこまで自分が接近を許されるかということが最大の懸念である。接近できなければ作戦として成立しないし、接近できても志貴を集中的に潰されては意味を成さない。あの男も志貴がどれほどのジョーカーであるか理解しているだろう。普段は無視をしていいが、しかし完全に無視すれば死への直行便に乗り込むことになる。

志貴の直死の魔眼は物の死を視切る。それはその物の生と存在を視切ることであり、それを断つということはその物の生涯を遮断し、修復と再生を許さないということだ。これにかかって、死徒二十七祖であったネロ・カオスはその混沌という世界を殺された。彼は慢心によってその身を滅ぼしたが、この念動力者はどうであろう。この男がどうやって志貴の魔眼の存在を知ったかは不明だが、魔眼を知っているということは少なくともネロ・カオスの件も知っているだろう。ということは、志貴に対する油断や慢心はありえない。懐に入られれば必死であるその死神の眼は、どのようなものでも断ち切ってしまう。死神の眼の名に相応しい威力の魔眼は、油断していたとは言え本調子のアルクェイドを殺したのだ。

「どうした、代行者。来ないのか」

咥え煙草で煙を吐きながら言う。奴も承知している。念を乱発させて消耗を誘っていることを。だから男は後手に回って自ら仕掛けようとしないのだ。

「まぁいい。それならばこちらから行こうか」

シエルの思考と真逆のことを言って男はまだ火の点いている煙草を弾いて、両腕を広げた。

そのとき。志貴は確かに見た気がした。いや、視た気がした。男の両手の指から糸のようなものが張り巡らされたのを。

魔眼殺しを掛けているのに?

志貴の眼がおかしくなったのではない。確かに思念波という糸が彼の指先から飛び出したのである。それを理解しているのはこの場では男以外にいなかったが、しかし何かが来るのは志貴もシエルも諒解していた。

シエルはその気配に気付いて反射的に横に飛び退いていた。シエルが元いた場所に鉄パイプが突き刺さるのを見て、志貴は後ろに飛び退いた。同じく、鉄パイプがコンクリートに突き刺さる。

志貴はナイフを逆手に持ち替えて気配を探った。明らかに三つや四つ以上の気配がして、自分を見ている。

「何だ、こいつら!?」

「死者……!?違う、ただの屍?」

男の指が動くと、彼の後ろからぞろぞろと有象無象の屍が出現した。一体今までどこにいたのか、それらの死体は皆腕がなかったり、這いずり回っていたり、または首だけのモノまで存在した。吸血鬼ではないあの男がどうやってこれらの死体を使役しているのか、シエルには理解不能だった。念動力では自分の大きさ以上のものをこれほど操るのは不可能であるし、できたとしてもメリットがない。念動力ならば、これらの死体の数を借りなくとも念だけで事足りるではないか。

シエルは黒鍵を三対ずつ備えた。しかし黒鍵ではあれらを止めることはかなわないだろう。死者は一応本能で歩き回ったり血を吸うために人間を襲えるが、あれらのような屍の場合、完全に活動を停止している。活動を停止しているものを操っている以上、黒鍵で吹き飛ばしたり燃やしたとしても欠片は残る。今度はその欠片自体を武器として銃弾の代わりとするかもしれない。それでは限がないのだ。完全に砕くしかない。そうなると黒鍵ではいささか不足なのだ。

「これが本当に念動力……!?屍を操るなんて……」

 黒鍵の六つの白銀が八つの屍を串刺しにしてしまうと、火葬式典の恩恵でそれらは燃えてしまった。しかし、例え燃えたとしてもそれは皮膚や肉が燃えてしまったに過ぎない。骨までには至らなかった。加えて屍は八つを滅ぼしたところでまだ一〇以上存在した。全く、どこから調達してきたものか。男はくく、と笑って指を鳴らしてみせた。

 屍の半数がシエルに向かい、もう半数は志貴に向かった。二人の運動能力からすればそれらの動きは緩慢を極めたものだったが、しかしその膂力と意志のない動きは脅威に値した。何しろ、彼ら自体には意志が存在しないから次に何をするのか見当もつかない。ほとんど戦術などを無視してかかって来るものだから、こちらの常識の戦術が通用しないのだ。シエルは黒鍵をその形状どおり剣にして振るい、一つの首をはねた。だがすでに事切れたものであるので怯むことなくシエルの肉を裂こうと爪を立ててくる。今度はその両腕を切断してしまうと、後ろから生気のない腕が伸びてくる。それをかわしながら背後の屍の胴体ごと斬り裂いた。

 志貴にいたっては眼鏡を外し、屍の死の線を断つことで何とか凌いでいたが、死体を殺すということの何と無為なことだろう。死体に走っていた赤黒い線をなぞり、屍を今度こそ蘇生することのない土に還してゆく。

「どういうんだ……!!お前!」

青くなった瞳で男を直死した。男は綻ばせた口許を直すことなく志貴に向いた。

「いい殺気だ、七夜。俺の体にはどれほどの線があるか知らんが、君なら俺も殺してしまえるだろうよ」

「何を言っている……!?」

 志貴は男の線を視た。ひどく線の走り方が複雑だが、それはこの男が脆く死に易いということだ。

脆いということは。その生涯も脆いものであるということか。

「七夜よ。俺は君のことを過小評価していない。かのネロ・カオスのような愚行はよもやしまい。だが過大評価もしていない。俺は自分を守るために君を殺すことにするが……しかし自分を守るというのは俺にとっては瑣末なことだ。俺は殺されるだろう。死ぬだろう。だが……それもどうでもいいことだ」

志貴は男を更に直死した。起こる頭痛に耐えながら、志貴は男に点を視い出した。彼の右胸に一つ。左脇腹に一つ。

三つ。四つ。五つ。六つ。……????

七つ?八つ?九つ?点。点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点。

今まで線だったものが点に変化していく。それこそ、点と点を結ぶ線には、無数の点が存在しているように。

志貴は頭痛に耐えられなくなって頭を押さえた。このまま視ていたら、きっと頭がどうにかなる。それは狂うとか、そんな生半可なものではなくて、何かを超越してしまいそうな感覚。頭の回線が開いてしまい、あらゆるものを感じ取り、吸収し、同調し、支配して支配される。今でこそ魔眼という回線が開いてしまっているのに、これ以上自分というキャパシティを越えてあらゆる方面へ回線を開いて受信してしまうと、何か人知を超えた、いや、悪魔や精霊の類でさえその存在を認めない何かに変貌してしまいそうだった。

咄嗟に志貴は眼を閉じた。男はその間隙を見逃さず、念じた。

先ほど初撃として見舞った鉄パイプを、刺さっている部分の半分ほどをへし折り、志貴に向けた。眼を閉じていても気配だけは分かる志貴は、しかしそれどころではなかった。頭痛は眼を閉じても消えてはくれず、魔眼がある限り消えてくれそうにない。志貴の背中を鉄の棒が迫って、寸でのところだった。

「真祖」

「シエル、屍相手に手間取ってんじゃないわよ」

アルクェイドだった。彼女の残った右手で鉄の棒を握り、志貴への凶弾を止めてしまった。それをそのまま男に投げて、しかし鉄の棒は見えざる手に阻まれた。

「……ふん、今まで役立たずだった人が言う台詞ですか」

屍を全て燃やし尽くしていたシエルは黒鍵を軽く振るった。二度と動き出すことのないように骨まで残さずに燃やしていたのだ。死体相手に戦闘自体は手間取っていない。しかしそれで志貴がやられては本末転倒と言うべきだったであろう。

 アルクェイドもようやく己を制して、冷静な判断を取り戻してからの戦闘参加である。志貴があの状態では戦闘続行不可能であるが、しかしこれで差し引き五分の勝負になるというものだった。

「真祖。ようやくお出ましか」

「ええ、おかげさまでよく頭が冷やせたわ。もう油断しない。あなたを全力で殺す」

「アルクェイド……か?」

 志貴がアルクェイドのいるらしいほうへ首だけ向けると、アルクェイドは志貴の服の胸ポケットに入っていた眼鏡を取って掛けさせた。

「志貴。あなたはもう休みなさい。無理して魔眼を使わなくてもいい」

ひどく、優しい声だった。志貴は眼を開けてアルクェイドの姿を見たくなった。頭痛は先ほどと比べて治まったが、未だ続く。

志貴はアルクェイドの姿を見て一瞬たじろいだ。左腕を肩から潔く切り落としてしまっていて、断面として肉や骨が見えている。一体どれほどの激痛に耐えているのか見当もつかないが、あるいは痛みなど感じないのかもしれない。だがその姿は痛々しく、真祖の姫を弱々しい印象が包んでいる。

「さて……あなたには左腕の借りがあるから、それを返させて欲しいわね」

「おや、貸した覚えはないがね。あなたがそう思っているのならそれでもいいさ。だが……」

男は指を一つ鳴らした。それを合図として、三人の足元のコンクリートが隆起し、彼らの視界を奪い去って立ちはだかった。無論、それらを破壊したアルクェイドとシエルは瞬時に男を捉えようとした。しかし、路地裏は彼ら三人以外に生者は存在しなかった。

「取り逃がした……?」

アルクェイドが苦々しげに呟く。冷ややかな眼で周囲を見渡していたシエルは、それに同意しつつも否定した。

「……どちらかと言えば逃げてくれたのですよ。私たちは負けたんです。命も獲られていませんが、しかし、負けた」

「……どこまでも癪な奴ね。見逃してくれたって言うの?冗談じゃないわ、何でそんなことされなくちゃならないのよ」

「そうでなければこちらが不利でしょう。あなたは左腕を失い、遠野くんはあの通りです」

言われて、アルクェイドはばつの悪そうな表情で志貴を見遣った。魔眼の覚醒で人間の脳の許容範囲を超えようとしたために、志貴は戦闘不能に陥ってしまった。

私のせいだ。もう少しで志貴は殺されるところだった。あいつが積極的に攻撃を仕掛けてきていたら、とっくに志貴はただの肉塊にされていた。確かにシエルの言うとおり、あの男が見逃してくれてよかったと言うべきだろう。気に食わないが、あの男の行動はこちらに有利に働いた。

アルクェイドはもじもじと身をよじらせながら上目遣いに志貴を覗き込んだ。

「志貴、大丈夫?」

「あっ?ああ、大丈夫だ」

「遠野くん、無理はいけませんよ。全く、どこぞのあーぱー吸血鬼のせいでさんざんでしたね」

この言葉にはさすがにむっとして、アルクェイドはシエルに詰め寄った。

「何よ、少しは情報を持っているとか偉そうなこと言って、自分だってほとんど何もしなかったじゃない」

「そうですね。ですがそれとこれとは話が別です。遠野くんはあなたが誘ったばかりに殺される寸前までいった。それが事実です」

これにはアルクェイドも閉口するしかなかった。ただの散歩で済ませていたら。殺人鬼の捜索などしないで、志貴と本当にただ散歩していただけだったら、今回のことは起きなかったであろう。そうでなくとも、自分が冷静さを欠いて左腕を失うなどという醜態を晒していなかったら。確実にあの男を仕留めていたろうに。

 肩をすくめるアルクェイドを見て、志貴は少し弁解してやった。

「いいじゃないか、先生。結局俺はこうして生きているんだし。それに、役に立たなかったと言ったら俺だって何もしていない。情けない限りだけど、今回はこの眼を持て余した」

「そんなこと!」

二人が声を合わせるのを、志貴は微笑みながら聞いていた。

 

……殺人鬼との初めての遭遇戦はこうして幕を閉じた。アルクェイドは左腕を完全破壊、志貴は途中で戦闘不能に陥り、殺人鬼は無傷。誰が見ても、三人の敗北は明らかだった。

 翳った月がようやく顔を出して、淡い光が路地裏を照らした。三人の受けたダメージは、殺人鬼が撒き散らした人であったモノが散乱させていた、その血の量に比べれば非常に小さな損害と言わざるを得ない。

 これから先、まだ流血のカレンダーは尽きていない。

 

                         遭遇、了