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ロビーで志貴付きの侍女である翡翠に帰宅時刻を大幅に過ぎたことを詫びて自分の部屋に戻り、私服に着替えて眉間にしわを寄せている妹の待つ夕食の席に就いた。秋葉の小言に耳を傾けながら秋葉付きの侍女兼侍女長の琥珀の作った鹿肉のソテーをつつく。

マナーについては未だに睨みを利かされる志貴であったが、それでも遠野の屋敷に帰ってきた当初に比べるとましなほうであった。ゆったりとした時間の中で夕食を終え、恒例のお茶会を済ませて入浴し、志貴は早々に自分の部屋に引っ込んだ。

翌日に模擬試験を控えている志貴は多少なりとも勉学に励んでおかねば、結果に障る。せめてどこかの大学の合格圏内に位置しなければ進学校である志貴の学校からよからぬ呼び出しがかかりかねない。それは精神の安定と家内の安寧のために避けねばならないことであった。時刻は九時を回る。三時間ほど志貴は教科書と問題集と格闘した。

……時計の長短の針が一二時を指して、志貴は大きく伸びをした。同時に目覚まし時計が咆哮をあげて素早くそれを止める。起床するためではなく、勉強するときに一時間半間隔で休憩を入れるためのものだ。最初にこれを翡翠に見つかったときには怪訝な表情をされて言われたものだった。

「志貴さま、私にご不満がおありでしょうか……?」

もちろんあるはずもない志貴はその意味が分からないで首を横に振ると今度は声を少々荒げて翡翠は言った。

「ならそのような機械は姉さんにでも差し上げてください。志貴さまもお戯れが過ぎます」

なるほど、志貴は先日のことを思い出した。志貴が毎朝翡翠に起こしてもらうのは心苦しいばかりに目覚ましでも買おうと言うと、翡翠ははっきりと拒絶した。目覚ましに頼るということは、彼女の仕事に不満を持つということだ。主人に朝を告げることを日課とする翡翠には酷というものであったのだ。

志貴は苦笑して本心を説明した。そのときの翡翠の顔は、少し、忘れられそうにない。

 教科書や問題集を閉じて鞄に仕舞い込み、机の電気スタンドを消して部屋の電気も消してしまうと、志貴はベッドに潜り込んだ。明日は早く起きて公式の一つでも頭に叩き込んでおこう。眼鏡を外して眠りの海に身を沈めていった。

 

しーき。

……

しーき。

声が聞こえる。

しーき。

 眠りを妨げる。

 志貴ったら。

 気にしない。

 んもう、志貴の唇奪っちゃうぞー

 気にしない。

 やだ、本当にいいの?じゃ、遠慮なく。

 ……。

「コラーー!!」

「きゃぁっっ」

瞬時に体を起こすと、のしかかっていた白い物体はベッドに尻餅をついた。プラチナブロンドの侵入者は非難がましい目つきで志貴を見る。

「びっくりしたなぁ。もう、いきなり起きないでよね」

「何やってんだこんなところで!」

と、叫んだところで頭痛がした。眼鏡を外しているのを忘れていた。アルクェイドにはないが、壁やらベッドやらに赤黒い線が走っているのが視える。慌てて眼鏡を掛けると頭痛は治まって線も消えた。魔法使い謹製の魔眼殺しのおかげだ。

侵入者、アルクェイドはけろりとした顔で抱きついてきた。

「へへへ、志貴げっと」

「何がげっとだ、今……二時過ぎか。こんな時間に何の用だ」

「だから、さっき言ったでしょ?屋敷に忍び込むって」

 志貴は頭を押さえた。まさか本気で実行するとは思ってもみなかった。だいたいどこから侵入してきたものやら。

「志貴、街に出よう」

唐突に、吸血鬼は言った。突然眠りを遮断された志貴は間髪入れることなく拒否した。

「却下」

「何でよぅ」

「あのな、俺は寝てたの。それを途中で邪魔した上に街に出ようなんてわがままが通るか」

掛け布団を被り直してベッドに潜る。完全な拒絶の構えである。アルクェイドはそれにめげずに揺らしたりして説得を試みる。

「いいじゃない〜散歩しようよ散歩〜」

「却下却下、大却下」

「……ううう、いいもんいいもん、志貴は私のことなんかどうでもいいんだ」

突然拗ねたような声でそんなことを言い出した。ベッドから降りて部屋のドアのほうまで歩き、膝を抱えて座る。

志貴は布団越しにその独り言を聞いてみた。

「ふんだ、どうせ私は吸血鬼だよ。志貴の生活とはかけ離れた夜行性の化け猫だよ。ううう、あんなに優しかった志貴が私を否定するんだ。いいもん、今から街に出て行って殺人鬼と会って殺されて来るんだから。そうでなくてもあの陰険黒装束女が私を狙ってくるし。私はむざむざと切り散らされて肉片になって、脳味噌撒き散らして血の噴水になるんだ。よかったねー、邪魔者がいなくなって。もしそうなったらこの街消し飛ばしてやるんだから。……ふぇぇ、やだなぁ涙が出ちゃう。女の子だもん。そうよ、吸血鬼だって女の子だもん。それなのに志貴は全然冷たいし。長生きはするもんじゃないなぁ。志貴は私にいつだって冷たいよね。毎日だってラーメン作りに来て欲しいのに、学校だーテストだー妹だーって。ふんだふんだ、ふーんだ。ぐっすん、およよ……」

「あーもう、うるさいな。分かったよ、付き合えばいいんだろ」

「志貴!」

今までの涙はどうしたのか、アルクェイドは満面の笑みで立った。頭に猫耳が生えたが、今の志貴には関係のないことである。

 ベッドから起き出して大きく伸びをし、アルクェイドの頬を軽く引っ張る。

「ひたた」

「ったく、わがまま娘め」

引っ張っていた頬を放すと志貴はゆっくりとした動作で私服に着替え、引き出しに仕舞っていたナイフを取り出してポケットに仕舞う。志貴に手加減なく抱きつき、アルクェイドは志貴を抱えた。

「うわあ」

「ほら、志貴行くよー」

「行くよってお前、どこから……」

そのまま窓を開け放って跳躍した。木々の枝を伝ってあっという間に屋敷の外の地面に降り立つと、疾風を体現して駆け抜けていった。

無論、吸血鬼だからこそできる芸当であったが、今夜のアルクェイドは殊更上機嫌であった。一分と経たずに公園まで来て、電灯の下に志貴を下ろした。志貴は多少乱れた衣服を直しながら白い姫君を非難した。

「無茶するな、お前と違ってこっちは上空というものに慣れてないんだぞ」

「そう?あんまり調子いいから公園まで来ちゃった」

 歩きながらおしゃべりするつもりだったのに、と語を次いでアルクェイドは笑った。その笑顔には宝石が砕けたような華麗さがあって品をも感じさせるものだったが、志貴には無邪気としか言い表せない。何しろ、真祖の姫君と呼ばれているにも拘らず偉ぶらないで快活、上品とは真逆の陽気さと可憐さを持ち合わせているのだから、ついつい志貴はその笑顔に見とれて甘やかしてしまう。いつもはわがままが過ぎるお天気吸血鬼だというのに。

 あの日。一年半前のあの日にアルクェイドと出逢い、殺していなかったら。それは志貴にとってどのような平行未来に分岐していたのだろうか。アルクェイドは執行者として、シエルは陰惨な代行者として、秋葉は自身の鬼を抑えきれずに覚醒し、琥珀と翡翠は鬼と化した秋葉に殺され、弓塚さつきは救われない。ネロ・カオスは未だ徘徊し、シキはロアと共に夜に君臨して、志貴自身もしかしたら弓塚さつきに殺されていたかもしれない。そうなればシオンと出逢うこともなくタタリは発現し、この街が……。

 無駄な仮定はやめよう。仮定の話は嫌いだと言ったのは自分ではなかったか。平行未来、平行宇宙というのは確かに存在するものだが、関係はない。自分が行った未来と別の未来など、今に自信のない者が言う負け犬の遠吠えのようなものではないのか。

志貴は今を見た。空にはピースが足りない月、夜の涼やかな空気の中にある公園、そして隣には欺瞞や虚構など一ミリも存在しない笑みを浮かべているお姫様。別でない未来という現在がある。

「しーき。歩こう」

「ああ」

 それだけで十分だった。

 

 

三〇分ほど公園を歩いて、繁華街に出ることにした。元々アルクェイドは近来の殺人事件の犯人を捜していたのだ。本来の目的と「ついで」が入れ替わってしまったようだが、とりあえずここから捜索を開始する。

志貴もそのことを諒解しているから自然と話はそちらの方向へ向かう。

「超能力と言えば人外の能力だと言われるかもしれないけど、それは誤りだわ。超能力は人間が防衛力として作り出した本能。つまり魔に対する力なのよ」

「魔?吸血鬼とか?」

「それもあるわね。この国の伝承にもある鬼だとか妖怪、物の怪の類にそれらは対抗して作られた。けれどそれらの能力者はほとんど姿を現さない。何故なら魔にのみその能力を発揮して、ほとんど例外なく滅ぼされているからよ」

だからアルクェイドもどういうものかまだ知らない。知識としてはあるが経験としては分からない。

だから耐性がない。様々な呪法だとか秘術には耐性ができているアルクェイドだが、未だ経験することのなかった超能力などという理解不能の力はある意味恐怖であった。人間に危害を及ぼすであろう悪魔、鬼、邪神や蟲、魔獣。それらを滅ぼすためにだけ存在価値を与えられ、なおかつ存在理由とされた人間の決戦存在。異能力者、鬼子と忌み嫌われているが、確かにその能力は自分自身と人間を守るためのものであった。

それらの超能力者は異常であるという。何らかの欠落を持った人間がその穴を埋めるために神秘を与えられる。例えば殺人快楽者であったり。例えば自らの存在が不確かな者であったり。神からの恩恵、とは言えないが、守り手とされるのだ。

異常者だから。人間の社会に適合できないからこそ、人外に対することを求められるのである。

「勝つ見込みはあるのか」

勝つ、とは我ながら甘い表現をしたものだと志貴は思う。それは即ち殺すということだ。殺さなければ殺されるだけの彼らの戦いは一瞬で決する。それが今回は長期に渡って拡大するかもしれない。アルクェイド自身、一撃で首を獲れるとは思っておらず、自分の腕や足の一本二本の犠牲はやむを得ないと覚悟している。

つまりそれほどの相手なのである。相手がもし志貴であったのなら、自分に触れさせなければよいことだが、念動力者は違う。能力者の視界に入ってしまえば、それはその者の領域に、間合いに入っていることになる。それだけを考えると秋葉もまた同様の能力を有しているが、しかし念動力者のほうがいささか厄介ではある。熱を奪う秋葉の能力は、イメージすることで万物に効果を及ぼす念動力に比べれば瑣末と言わざるを得ない。

アルクェイドは警戒している。

志貴はそう感じ取っていた。感じ取らざるを得ないほどにアルクェイドは超能力、念動力を知らない。経験していないものには、どんな生き物であれ恐怖や不安は付いて回るものだ。真祖の姫君であっても例外ではないらしく、志貴は不安を感じずにはいられない。どうあってもアルクェイドが死ぬことはないが、やはり殺されることはあろう。

 アルクェイドは一瞬うつむいてからいつもの笑顔を志貴に向けた。

「私が負けるわけ無いでしょ?」

志貴は頷いた。それに関しては彼も分かっている。だがもしかしたら……。

「で?さっきからそこにいる陰険女は少しは役に立ってくれるのかしら」

志貴は辺りを見回した。公園の電灯が木々の陰になってできた暗がり。そこから彼女は姿を現した。

漆黒の法衣に十字架が浮かび、黒い頭髪に蒼い瞳が暗闇を見つめているようで、何か不吉な印象を与えるが、それは代行者としての衣を着ているシエルだからである。知得留としての彼女は柔和な、眼鏡の似合う落ち着いた物腰の女性であった。

シエルは冷たい光を放つ瞳を真祖に向けながらブーツを鳴らして歩み寄った。

「あなたこそ。経験したことの無い超能力を相手に縮み上がっているのではありませんか?」

「減らず口を。私は確かに超能力を恐れている。けれどそれが私の敗因になることはありえないわ。殺人鬼は死ぬしかない」

瞬時に張り詰めた空気を作り出しておきながら、シエルはアルクェイドの言葉を無視して志貴に笑顔を向けた。

「こんばんは、遠野くん。ダメですよ、こんな時間に出歩いては。まだ学生さんなんですからね。明日も模擬試験があるでしょう?早くお帰りなさい」

教師の口調になって思わず志貴は従いそうになったがアルクェイドがそれを制した。

「志貴は私と散歩してるのよ。邪魔しないで貰いたいわね」

「この時間に出歩いていることそれ自体が遠野くんにとってはいけないことなのですよ。青少年保護育成条例、と言っても吸血鬼のあなたには理解できないことでしょうがね」

「ふん、人間の法律を重んじる代行者殿には恐れ入るわ。自分は人間の規格外のくせに」

「人外の規格外である真祖に言われてしまうとは、誠に光栄の極みですね。それほど私は大それてはいませんよ」

「あら、謙遜しなくてもいいのよ。欺瞞や虚構が得意なあなたは確かに人外と言えるんだから」

まずい。志貴は背中に汗が伝ってくるのを感じた。この空気は非常に危険だと告げている。何故この二人は会うといつもこうなのか。少しは協調性だとか譲歩とかいう言葉を覚えて実行してもらいたいものだ。

何とか丸く収めねば。しかしこの二人の間に割って入れるほど今の雰囲気に隙がない。風が吹くとか、二人の間に木の葉が舞い落ちるといったような「合図」があればきっと二人は殺し合う。

そんな志貴の不安をよそに白熱していく眼光と眼光。冷徹な瞳と氷のような眼。それぞれがどちらを指すものか志貴は表現できないでいる。いや、同じようなものだ。敵に対していることには変わりないのだから。

とにかく殺し合われるのはいささか面倒なことになる。志貴は額に汗を噴き出させて割って入った。

「よ、よせよせ、二人とも。冗談じゃ済まないんだからな、二人の場合」

「あら、冗談だと思った?志貴?」

「そんな寛大ではいられませんよ、私は」

異口同音に本気ということを示してくれた。大きく溜息を吐いて、しかし志貴は引き下がらない。シエルに譲歩するように説いてみることにした。

「知得留先生。俺は俺の意志でアルクェイドと散歩してるんだ。決して強制されたからとかそういうんじゃない」

そう選択せざるを得ない状況には追い込まれたが。

「遠野くん。あなたは何故いつもいつも厄介ごとに首を突っ込むのですか。真祖は連続猟奇殺人犯を追っているのですよ?これはあなたの関知するところではありません。早くお屋敷にお帰りなさい」

「そうかもしれない。でももう付き合うって約束してしまったんだ。俺を悪者にしたいの、先生は」

「全く……真祖に関わっていること自体あなたにとってはいいことではないのに、その真祖に向かって約束ですって?お人よしが過ぎますよ、遠野くんは」

アルクェイドは不機嫌そうに二人のやり取りを見ていたが、やはりどんどん不機嫌になっていく。

「何と言われようと約束は約束だ。相手が吸血鬼だろうが何だろうが守るよ」

志貴の強硬な態度と純粋さに少し圧倒されて、シエルは身を引かざるを得なくなった。何といっても、これが志貴なのだ。自分が唯一心許している柔和な少年の、とびきり光っている長所。分け隔てと裏表のない彼の人格は、この場にいる二人の女性の心を確かに掴んでしまっている。

シエルは苦笑して、ほころばせた口許を締めてアルクェイドに向いた。

「分かりました。今回は引き下がりましょう。ですが、私も同行させていただきます」

「ちょっ、冗談じゃないわよ!何であんたが!」

掴みかかりそうな勢いを、志貴の手と苦笑した表情が止めた。この際仕方ないじゃないか、と彼は告げている。納得はいかないが、ここは志貴の顔を立ててやることにしてせいぜい黙っていることにした。

「どうせ敵についても知らないのでしょう?」

「……あなたは知ってるっていうの」

アルクェイドの眼つきが変わった。

そうだ、敵について。現在では全く情報というものがない。せいぜいニュースで報じられる程度のことしか知りえないのだ。シエルの、教会の情報は貴重なものである。ただ、シエルに頼らなくてはいけないのがアルクェイドには口惜しいが。

 志貴も敵の情報を知っていて損はない。この場にいる以上、殺人鬼と戦闘状態に陥った場合何らかの形で参加しなくてはならないだろう。せめて囮くらいにはならねば、今回は劣勢を強いられる。超能力などという得体の知れないものと戦わねば、否、殺し合わねばならないのだから。

超能力を知らないアルクェイドと、不死の体でなくなったシエル。生身の人間である志貴。

不安要素が多すぎる。せめて自分にシエルほどの運動能力があれば。事態は今少し楽な方向へ向かっていったのであろうが……。志貴はそう思いを至らした。

「あなたよりは。今回の敵は吸血鬼ではなく人間、超能力者であることにほぼ間違いないでしょう」

「その心は?」

「二ヶ月前にフランスで同じ手口の殺人事件が四件起きています。そのときの教会の人間の報告によると、事件が起きた最初の日から四件目の殺人まで死徒、あるいは死者の存在は確認されていませんでした。血を抜かれていたとの報告もありません。吸血衝動を抑えられる吸血鬼など、二十七祖か真祖くらいのものです。現時点でそれらが姿を現す可能性は低い」

「おかしいわね。教会の人間は相手が人外であることを確認した上で行動するんじゃなかったのかしら?」

シエルはアルクェイドの眼を見てから夜空を見上げた。見上げたままで、シエルは言った。

「フランスに別件で滞在しているエクソシストが現場となった街に偶然いたのです。その者が勝手に調べ上げたものが私に流れてきているに過ぎません」

表面上はアルクェイドも諒解した。

フランス、という地名を言う度にシエルの表情は複雑になった。かつてエレイシアという一五歳の少女が平凡に、幸せに暮らしていた場所。悲劇を約束されていた場所。死と再生を契約された場所。懐かしむべき場所であるが忌むべき場所でもある。彼女の生まれ育った街は、今は復興しているのだろうか。無論、感傷に過ぎないが、思うことは許されるだろう。決して帰ろうとは思わないものだが。

 シエルは視線を二人に戻して続けた。

「いずれも腕や足を捻られ、頭部を潰されたりしていた。辺りには凶器らしい凶器も発見されない。事故の線も薄い。現地の憲兵や警察は焦ったでしょうね。超能力の仕業なんて夢にも思わないでしょうから」

「それでも超能力……念動力であると断定できないわ。何か決定的な根拠がないと」

「建造物です」

「建造物?」

アルクェイドはオウム返しに訊いた。

「四件目、最後の殺人の際に周囲の建造物が破壊されていました。原型をほとんど留めないほどに」

 四人目の被害者である三二歳の女性は頭部と両足を完全に潰されていた。その時点で不審に思うものだが、それだけではなかった。四方を廃ビルに囲まれていたはずだったが、そのビルが損壊していたのだった。無論、自然にというわけではない。周辺全てが同時に崩れてしまったというのはありえないし、爆発などの影響でもない。あくまで「何らかの衝撃によって崩れてしまった」というのが警察と憲兵の一致した見解であった。昔ながらの古風なレンガの建物であるが、それらが劣化して崩れてしまったという見解も確かに存在する。しかしながらビルの破片や残骸が、ビルの足元ではなく四方八方に飛び散っているのが解釈を曲げる要因となっている。自然に崩れたものならば足元に散らばっているのが常識であろう。

それらのことからシエルを含む教会の人間は、「人外でない異能者の仕業」と断定した。だが、この話以前の問題として決定的におかしな点が一つある。

「超能力者は分かったわ。けれど教会が動く理由には当たらない気がするんだけど?むしろ超能力は魔を滅するもの、あなたたちにとっては敵ではないわよね」

「教会は動いていませんよ。私の独断専行ですから」

シエルは先ほどからアルクェイドと目を合わさない。むしろ意図的に逸らしているようにも思えた。何か裏がある、と考えるには十分な仕草であったろう。

「ふうん、まぁいずれその話は追求することにして。シエル。教会は超能力者に対する方法を知っているの?念動力に対抗する術を」

「……」

シエルは志貴を見てから月を見上げた。

超能力に対抗する術。そんなもの皆無と言ってよかった。元々人間が本能的に魔から種を守るために生み出した突然変異種である。超能力者が発生する条件も分からない状況で、それらを止める手立てなどあろうはずもなかった。

今回の場合、相手は念動力者である。念じるということ、それだけで物を捻じ曲げたり引き裂いたりすることのできる代物を止めるには能力者の思考を停止させるか、念じる暇も与えないほどの連撃を加える他にない。アルクェイドの魔眼を使うという手もあるが、果たして念じるのと眼を見るのと、どちらが速いのであろう。

だがシエルはもしかすると念動力を無効化できるかもしれないと思っている。

遠野志貴。彼の持つ直死の魔眼ならば念をも断てるのではないか、と。志貴は人間だ。人間である志貴に物の死は理解できないが、念、意志の類ならばどうだろう。志貴にも念はあるし意志も存在する。自分の中にあるものなら理解して断てるのではなかろうか。もしそれが可能ならば、対念動力者の切り札は彼になる。彼が念をことごとく切り払い、その間隙を縫ってアルクェイド、ないしはシエルが敵の首を獲る。志貴に多大な負担がかかってしまうのが難点であるが、今のところそれが最良の策である。

だが、仮定の話だ。

志貴が断てなければそれまで、持久戦に持ち込んで敵が怯むのを待つばかりだ。

 アルクェイドはシエルの返答を待たずにその話を打ち切った。

「……まあいいわ。無ければ無いで当初の予定通り持久戦に持ち込むだけ。それで今回はお終い。シエル、少しは働いてもらうわよ」

「誰にものを言っているのですか。あなたこそ見たこともない念動力に尻込みしないで下さいね」

「(……無力。あまりに無力……)」

一人蚊帳の外の志貴はそんなことを思った。先ほどから二人で何の説明もなしに話を進められては、無知な志貴には聞いているだけでやっとだ。二人はまた何やら口喧嘩をし始めるし、志貴は置いてけぼりを食らわされた気分になった。

「(まさか最後まで何もせずに終わってしまうのだろうか)」

それはいけない。何も起きないのはいいことだが、何か起きたときに役立たずというのは情けない限りではないか。男なのだから、という矜持のようなものも確かに存在した。だが、そんな安っぽいプライド、この二人には通用しない。

かたや圧倒的な力を以って魔の頂点に君臨する姫。

かたや漆黒の髪と法衣、白銀の剣で魔を屠る、神の意志を代行する者。

 彼女たちの戦闘経験とその身体能力を鑑みれば、そのようなプライドは冷笑されるだけである。小高い丘の上で自らを誇っている者を、山の頂から見下ろしているような、そんな類のものだ。

志貴は笑われるわけにはいかないが、しかし何とか役に立ちたい。もしむざむざ取り逃がすようなことがあればまた犠牲者が増えてしまうかもしれない。相手が超能力者とわかった以上、志貴も穏やかではいられなかった。彼自身、その特異な能力でアルクェイドを殺してしまったという前例があるだけに異能者ならば無視できなかったのだ。

 

……志貴の意志などお構いなしに、事態は急速に進展していく。