一、遭遇

 

 

 

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遠野志貴の貧血は今に始まったことではないが、やはり周りの者にしてみれば倒れられては肝を冷やす。彼の中学時代からの友人である乾有彦はその被害を最も多く被った人物であるが、しかしそれだけに志貴の信頼は厚いと言えた。決して口に出さないが。

今回も例外なく志貴に肩を貸した有彦は多少の非難を浴びせた。

「お前、人一倍体が弱いんだから夜更かしなんかすんなよ」

それは一番有彦に言ってやりたい台詞であったが、志貴は甘んじて頷いて見せた。

体が弱い志貴はしばしば貧血に見舞われる。彼の人生をおおよそ狂わせる吸血鬼殺人の事件から一年と少しが経っていたが、以前と彼の体調は変わらない。彼の貧血の原因であるものは少なからず消去されたが、しかし完全にというわけではなかった。

それから一年が経過して彼はシオン・エルトナムと出逢い、タタリを阻止した。そこで別れて以来彼女とは逢っていないが、息災でいるだろうか。吸血鬼化の治療の発見に努めるという約束をしてしまった以上、彼女の性格からしてまだ続けているだろう。志貴としてもそれは期待している。どこか記憶の片隅に追いやってしまっているが確かに志貴の心の大半を占めてしまっている、弓塚さつきという悲劇の少女がいるために、彼はシオンを応援したくなる。

志貴も決して口には出さないし、シオンも隠そうとしているが、彼女自身いつ吸血鬼と化してもおかしくはない。タタリが滅び、彼の支配から逃れられたとは言え、今度は彼女がタタリの席に押しやられることになっている。親の死徒はいずれ子に討たれる。シオンもその例外ではなく、親であるタタリ、ワラキアを討った。だから彼女には魔術協会と教会側の一層の監視がされているはずであった。

そのことについて志貴はシエルに訊ねもしたが、答えは返ってこなかった。

「遠野君は知らなくていいことですから」

などと言っていつもはぐらかす。無関係ではない、というよりむしろ当事者だった志貴に関係のないことであるはずがないのに、シエルは教えようとしなかった。これは、教会側の代行者としての守秘義務が第一にあったからだが、志貴とシオンに対する配慮でもあった。

いつ吸血衝動が起こるかわからないシオン・エルトナムは現段階で第一級の危険人物とされていた。代行者、シエルにその存在が確認されている以上、教会も無視することは出来ない。無論真祖であるアルクェイド・ブリュンスタッドは最上級であるが、「何故か」執行者としての彼女の圧倒的な暴力が失われているために最優先とはされていない。現在ではシオンのほうがより強い監視と追撃を受けている。彼女の現状は教会と魔術協会両方の追撃を逃れることに専念せねばならず、実際吸血鬼化の治療の発見に努める余裕などない。アトラス院からも圧力が掛かってしまい、彼女はアトラス院を再び出た。これを聞けば必ず志貴はシエルに抗議するであろうし、シオンを招くために何らかの行動を起こすかもしれない。これは、シエルにとっては些か厄介なことであった。

何にせよ志貴がこれ以上厄介ごとに首を突っ込むのは「代行者」としても「知得留」としても避けたいものであった。

「参ったな、貧血なんて久しぶりだ。有彦、悪かったな」

自分の情けなさを素直に謝って、志貴は保健室のベッドから身を起こした。

「気にするな。礼は知得留先生との昼食会でいいからな」

さらりと志貴の与り知らないことを言った有彦は自身の赤く染め上げた髪を撫でた。

シエルは暗示で高校生活を過ごし、今年度卒業した後に暗示を解き、更に暗示をかけて「英語教師知得留」として志貴たちの高校に赴任してきた。三月に惜別の念を禁じえなかったのに、四月になったらひょっこり現れて肩透かしを食らったような気分だったものである。

「しかしな、遠野。こんな夜遅くになって大丈夫かぁ?秋葉ちゃん心配すんだろうに」

保健室に掛かっていた時計を見てみれば既に七時半を過ぎていた。志貴はベッドに座って頭を軽く振る。

近来の街は物騒だ。ニュースでは連日、猟奇殺人事件だとか行方不明事件だとかを報じている。一年前の事件とは違い、今回は吸血鬼殺人と報道されてはいないが、代わりに猟奇殺人と報じられている。その遺体のいずれもが臓器を引きずり出されていたり、手足がもぎ取られて壁のオブジェとされていたりしていたために前代未聞の猟奇殺人事件として大々的に取り上げられているのだ。

そもそも人間の手足というのはそう簡単に体から離れることの出来るものではない。腕を切断するのだってのこぎりで何時間もかけて実現できる話だ。引きちぎられ、捻られているのを見れば誰だって怪奇に思うし、疑問に思うものである。

例外はある。志貴のよく知っている、人外の更に規格外、真祖の姫君であるアルクェイド・ブリュンスタッドその人である。上品で華麗な雰囲気を思わせる容姿は擬態かと言ってやりたくなるような圧倒的な暴力と威圧感、赤い瞳が金色に輝くとき、世界が凍結してしまうかのような戦慄を有している。吸血鬼である彼女は不死の体だが志貴の直死の魔眼によって一度殺されている。以来その傷を回復させるために本来の力は発揮できていないが、しかしそれでも人間を捻り潰すことぐらいは造作もないことだった。

だが、今回の事件とは全くの無関係だと少なくとも志貴は信じている。彼に殺されて以来、アルクェイドは以前の執行者としての殺気を帯びることはなく、暖かい笑顔が似合う陽気で楽天的な女性という印象を崩してはいない。それが彼女の本性でもあるのだろうが、 できれば永遠にそうあって欲しいと志貴は願う。彼女の暗い部分をさらけ出すことのない日々を今は送っているのだから。

 ベッドの足元にあった上履きを履いて、志貴は立ち上がった。そのときに立ち眩みがしたが問題ない。すぐに治まってくれた。有彦が持っていた自分の鞄を受け取ると保健室のドアに歩き出した。

「お前さんが大丈夫と言うんなら問題はないがね、無理はするなよ」

「ああ、サンキュ」

そう会話して保健室を後にした。

すっかり暗くなってしまった帰り道を二人連れだって歩く。有彦とは取り留めのない会話を交わし、途中で別れた。ここから志貴は一人になったはずだが、何やら人の気配がしないでもない。学校を辞したときから感じていたことだがどうも足音がひょこひょこと言ったような擬音が似合う。

志貴は溜息をついて振り返った。電信柱に付いている電灯の微かな光で自動販売機が照らされ、同時に白い服がそこに映えていた。多少の頭痛が襲い掛かってくるのを感じてこめかみの辺りを押さえる。

「アルクェイド。何の遊びだ?」

機敏に反応してアルクェイド・ブリュンスタッドは顔を出した。心なしか彼女の頭に猫耳が二つ付いているように見えるがここは気にしない。

アルクェイドはあっという間に志貴の目の前に来て微笑んだ。

「しーき。こんにちは」

透き通るようなプラチナブロンドを揺らして、彼女はいつものご機嫌を見せている。

肩までないセミロングの金髪は高貴さと無邪気さを表しているようで、服は真白いタートルネックのセーター、深紫のロングスカート。ほとんど毎日変わり映えのない出で立ちで、しかし夜でもそれははっきりと確認できる。

「間違ってるぞアルクェイド。世間での現在の時間帯の挨拶はこんばんはだ」

「あ、そうだね。こんばんはー、志貴」

「で、どうしたんだよ。この間会いに行ったろ?」

「ええ?それだけじゃ足りないよー。……ってそうじゃなくて、今日は志貴に聞きたいことがあったんだ」

突然に真剣な顔つきをされて志貴もそれに合わさざるを得なくなった。

「最近起きてる殺人、あれって志貴じゃないよね?」

とんでもないことを言う。少なくとも志貴はそう思ったが本人は真剣のようだ。鋭い眼差しで見据えられて背筋が寒くなるのを感じたがそれに負けるわけにはいかない。はっきりと否定する必要があるからだ。アルクェイドをしっかりと直視して答えた。

「……俺じゃない。少なくとも俺にはあんな殺し方はできない」

その眼を見て、アルクェイドは少し顔をほころばせた。

「そうよねー、志貴には切断することはできても捻じ切ったり潰したりはできないもんねー。……うん、安心した」

言ってから白い吸血鬼は得意の笑顔を志貴に見せた。アルクェイドは志貴の腕に自らの腕を絡めて引っ張った。

「じゃあさ、じゃあさ、二人でその殺人鬼をやっつけに行こー」

「あのなぁ、小学生がお化け退治に行くんじゃないんだから、そのテンションはやめてくれ」

「いいじゃない。堅いこと言わないでさー」

「俺は学生なの。第一、その殺人鬼が吸血鬼だって確かな証拠があるのか?」

一瞬にしてアルクェイドの表情が翳ってしまうと、志貴は何だか悪いことをしたような気分になった。冷静になって志貴は彼女の表情から、自分が言ったことは図星なのだということに気付いた。

「証拠は無いわ。死徒だったら気配で判るし、死者も徘徊してるだろうし。それに、根本的に血を抜かれたという内容のニュースはしていないわね」

とすると今回の件。吸血鬼はほとんど無関係だといっても過言ではないだろう。捻じ切ったり、潰したりした手口はどう行ったのか疑問は残るが、とりあえず人ならば志貴やアルクェイドの出番はない。殺人鬼が自分の街を徘徊しているというのは何とも気味が悪いものの、そんなもの他人にとっては瑣末な出来事でしかない。他人の家に強盗が押し入ったと報道されても、同情はしても何とかしようという気にはなれないのと同じだ。それが知人、友人ならばまた別の話だが。

ともかく、志貴はそこまでお人よしにはなれない。アルクェイドの誘いを断るには十分すぎる理由であった。

「んー、でも人間であってもああいう殺し方はできるかな」

とんでもないことを口走ったアルクェイドの口調はけろりとしたものだった。先ほど志貴には捻り潰したりはできないと言ったばかりであるのに、不可解なことだ。志貴は眉をひそめてアルクェイドに訊いた。

「?どういうことだ?人間にはああいう殺し方はできないって、さっき言ったじゃないか」

「志貴には、ね。志貴には魔眼はあるけどそれは単純に力を加えることはできない。そのモノの死を視切って断つから、切断するということになる。でも、これが単純に力を加えることが可能なら……?圧力を加えて腕を、足を、頭を潰すことができるのなら辻褄が合う」

「そういう魔眼があるのか」

志貴は少し納得してアルクェイドに言ったが、当の本人はしかつめらしい表情を地面に向けている。

「私が知る限りは無いわ。魔眼はそういうものじゃない。確かに体の自由を奪うものはあるけど、局部を操るものなんてないわ。そんなものがあるとしたらそれは超能力でしかない」

「超能力?スプーン曲げとか?」

「それもあるかも知れないけど、違う。サイコキネシスって言葉を聞いたことは?」

志貴は頷いた。

念動力。念じるだけで物を動かしたりすることのできる特異な能力。実物を見たことはないが志貴自身、テレビ番組での特集を見たりして少しくらいの知識はあるつもりだった。しかしそんなものはまやかしだ、と思っている。少なくとも面白半分に特集したテレビ番組の内容など、信じるに足りない。物を浮かすとか、水道の水を曲げるとか、子供だましのトリックではないか。しかし、信じてはいないにしろそれが彼の念動力についての知識の限界だった。

「志貴、そんな先入観とか、曖昧な知識は捨てて。念動力は生半可な能力じゃないの。物を浮かせたりとかは念動力のうちに入らない。例えば、明確に速度をイメージできれば小石も銃弾程度にはなる。例えば、向かってくる銃弾を止めてしまえる。例えば、人間の腕や足や腰を捻じ切ってしまえる」

思念波という見えざる手が、時には銃の火薬の役割を、時には身を守る障壁となる。障壁というよりは、向かってくるものとは反対の方向に圧力を加えて停止させるというのが正しいが、とにかく念じるだけで幾多の行動が起こせる。

殺人も同様。相手の腕を動かし、無理な方向へ引っ張るだけで折れてしまう。しかも、自分の腕力とは関係なしにイメージできた力だけ行使できる。それは例えば蟻の足を千切るのでもいい。それを人間レベルにまで拡大解釈してしまえば先の事件のようなことは起こすことができる。

折るのならば小枝を。

潰すのならば西瓜を。

それぞれイメージすることでどんなものにでもその力は及ぶ。

しかしそれには一つだけ、欠点がある。

「自分の大きさ、それ以上のものは扱えないということよ。例えばビルを動かそうとしても無理よ。人間が体感できる以上の重さだもの。何トンという代物を持ちあげることができる人間なんていない。経験していないものはイメージできないのよ。それはさっき言った銃弾も同じだけどね」

「ん?矛盾してるぞ。拡大解釈すれば可能なんじゃなかったのか」

「それは自分より小さいもの、あるいは同じだからよ。人間に人間の腕や足は潰したりすることはできないけど、経験することはできる。猛スピードで走ってくる自動車に激突すれば少なくとも間接部は潰れるわ。その状況を見ているだけでもいい。自分が骨を折った経験があるのなら尚更いい」

人間はビルを動かしたりする場面を見ることができない。しかし、映像などで破壊する場面を見ていれば少なくとも表面に亀裂を生じさせることは可能である。見るということと経験するということは等しいものではない。見ているだけの経験ならば、実際に「やった」ことがある経験の一〇〇分の一以下の効果しか現せない。もっと言えば、破壊できると聞いた情報ではその更に一〇〇分の一程度の効果である。

百聞は一見に如かず。一度の実戦は百度の修練に勝る。

イメージの精確さは経験によって異なるものであるのだ。

「今回の犯人が超能力者だとしたら、かなり精確にイメージすることができるわね。人間の腕を完全に破壊するなんて生半可な経験じゃ無理だもの」

「……何だか話がややこしいことになってきたな……さっぱり分からない」

「要するに、すっごく危険なやつってことよ。私だって超能力には耐性が無い。だからあなたの魔眼は防げなかったし、念動力なんて代物にはお目にかかったことすらないから」

それは。もしアルクェイドが犯人と対したとき、負けることはないが勝ち目もないということではないだろうか。いかに不死の体であってもその体がへし折られたり、引き千切られたりすれば自由は一時的にではあるが奪われる。しかも相手はアルクェイドに近づくことをしなくてよいのだから、ほとんどいたちごっこではないか。

志貴はそのことに思いを至らして嘆息した。アルクェイドが死ぬことはないが、殺されることはあるかもしれない。そうなれば、志貴に傷つけられた体が癒えたというのにまた力を失ってしまうかもしれない。そうなっては本当に勝ち目がなくなってしまう。今アルクェイドを一人にしては殺人鬼を止める者がシエル一人となってしまうのだ。

あるいはシエルならば対抗策を持っているのかもしれない。超能力を無効化する概念武装だとか、術を行使できるのかもしれないが、アルクェイドがそれをよしとするはずもないだろう。何といっても、二人は超絶的に仲が悪い。出会えばすぐに殺し合いに発展する二人が共闘するには今少しの犠牲を払わなければ不可能だ。

だがそれまで待つことはできない。犠牲者は少ないほうがいいのだ。無論、無ければ無いでよかったのだが。

「ほらほら、心配になってきた〜。しーき、だから一緒にやっつけようよ」

志貴の心情を見透かしたのか、アルクェイドはそんなことを言ってくる。先ほどまでの神妙な面持ちはどこの次元の彼方へ追いやったのか、またもや猫耳が付いている。

実は志貴はアルクェイドのこの種の「おねがい」に弱い。服を引っ張られて上目遣いに笑顔を向けられると断ってしまうことが非常にはばかられる。

志貴にだって色々事情はある。最近は模擬試験の連続で疲れているし、そろそろ大学に行くのか就職するのか進路を決めないといけない。尤も、後者は家柄的にありえないことではある。当主は妹の秋葉だが、就職するなどとは許されまい。「遠野の長男らしく」振る舞うことを言いつけられ、なまじ働くことも許されないことは志貴にとっていささか苦痛でもあった。

 ともかくも、秋葉に心配と迷惑はかけられないし、第一まだ相手が超能力者と決まったわけではない。協力する気には今ひとつなれないでいた。

「悪いけど今回はパス。明日も模試だし、今日のところは寝かせてくれ」

「ええ〜〜」

何やら文句を言うアルクェイドに心の中で詫びながら帰路に再び就く。

「志貴〜!後で後悔しても遅いんだからね〜!お屋敷に忍び込んでやる〜」

 背筋が寒くなることを言うアルクェイドを背にして、志貴は遠野の屋敷へ急いだ。